2017年8月19日土曜日

捕物の話 火付盗賊改 首斬朝右衛門

捕物の話 三田村鳶魚 著 
早稲田大学出版部 昭和9年 (中公文庫 1996)

火付盗賊改 首斬朝右衛門

 火方盗賊改が新任されますと、その祝に松右衛門、善七が押かけて来る。さういふことは他の御役には無いことです。その来た時の様子が、津村淙庵(つむらそうあん)の『譚海(たんかい)』に書いてありますから、それを出し置きませう。

江戸にて火事御役(十人火消)加役(火方盗賊改)など仰付らるゝ時は、境町葺屋町(さかひちやうふきやちやう)等の三芝居の座本太夫祝儀にまいる例也、庭にすぢを割して堺をたて置、品川浅草の乞児(こじき)の長、松右衛門善七たちつけ羽織にて、玄関の左右の土間に坐し、式台に手をかけながら、此度は結構なる御役儀蒙らせられ、恐悦に存し奉るよしをのぶる、用人玄関に坐して礼をうくる、扨(さて)詞儀畢(じぎをはり)て、三芝居の者共御祝儀に参上致候よしを相述(あひのべ)、松右衛門善七左右にわかれ、向ひ坐する時、勘三郎(かんざぶらう)羽左衛門(うざゑもん)勘彌(かんや)等麻上下(あさかみしも)にて、門のくゝりより入(いり)、土間の堺をたて置たる所に座し、同様に祝詞を述、退出する事なり。

 いろ/\役向や扱に就て変つたこともありますが、その中でも非人頭が挨拶に来るといふことは珍しいと思ひます。そればかりではない、新任の披露状を首斬朝右衛門のところへ遣る。これは山田朝右衛門殿、誰組誰といふので、組下の与力両人の名前で、披露状を出す。かういふことも外の役には無いやうです。この文段も全文出し置きます。

以手紙致啓上候、然者此度誰々跡御役火付盗賊改被仰付候間可被得其意候、右之趣申入候様、頭申付候間如此御坐候。

(手紙を以て啓上致し候、然れ者(ば)此度誰/\跡御役火付盗賊改仰せ付け被(ら)れ候間其の意を得被(ら)る可(べ)く候、右之趣(おもむき)申し入れ候様、頭(かしら)申し付け候間此(かく)の如くに御坐候。)

 それから死罪の者がありました時、同心を使にして、火方盗賊改の役所から朝右衛門の出役を求めます。その手紙も珍しいものと思ひますから、文例を出して置きます。

明幾日、牢屋敷何時揃二而(て)、死罪之者何人御仕置申付候間、例之通(れいのとほり)御出役(ごしゆつやく)可有之候(これあるべくさふらふ)。以上。
  月 日

 首斬朝右衛門といふと、誰でも知つて居(を)りますが、あれは町奉行の役人でもなければ、牢屋の役人でもなし、火方盗賊改の役人でもない。幕府の役人では無論ありません。誰の禄を貰つてゐる人間でもないのです。一体死罪、斬罪等の者の首を討ちますのは、町奉行の方とすると、一番年の若い同心の役になつてゐるのですが、火方盗賊改に致しても、やはり同心の役になつて居(を)ります。この浪人山田朝右衛門は、いつからさういふ慣例になつてゐるかわかりませんけれど、首斬役の同心と相対(あひたい)で代役をする。その時は検使として御徒目付、与力、同心等が牢屋の役人と共に立合ふのですが、皆慣例を承知して居りますから、別に何とも云ふ者も無い。それから面白いことは、当役の同心が実際に首を討ちますと、刀の研代(とぎだい)として二分づつ下されがある。それを朝右衛門に譲つて首を討たせますと、二分は自分のものになるのみならず、朝右衛門は諸家から刀を試して貰ひたいと云つて頼まれて居りますので、その方から礼を貰つてゐる。だから役を譲つた同心の方へは、朝右衛門から礼金が来る。さういふわけで自然役を譲るやうになつてしまつたのです。
 牢屋の中で首を討つのは、獄門になるのもやはり牢内で斬るのですが、斬罪と申ますのは刑場へ引出(ひきだ)して斬る。死罪は牢屋の中で首を斬るのです。その外に下手人と云つて、死罪になる者がありますが、此等は皆首を刎ねる。そううち様物(ためしもの)と云ひますと、これにもいろ/\作法がありますが、二ツ胴、四ツ胴などと云つて、死骸を重ねて斬る。さうして刃物を試すことになるのです。普通様物(ためしもの)と云ひますと、獄門は勿論、斬罪、下手人は様物(ためしもの)にしない。死罪になるものだけを様物にする。本来刀剣の試しを致すのでありますから、様物にしていいと法律に規定してある罪人だけを、朝が斬る筈なのですが、他の死刑になる罪人をも扱つたらしい。厳密に云へば様物(ためしもの)になるものだけでなければならぬわけなのです。
 麹町平河町(かうぢまちひらかはちやう)の朝右衛門の宅では、金二分づつ出すと、労症(らうしやう)の薬といふものをくれる。それには人胆(じんたん)が入れてあると云はれて居りました。果して人胆が入つてゐるかどうか、わかりはしないのですが、江戸時代にはさう云つて騒立てたものなのです。朝右衛門の宅では、今日は幾人死刑になる者があるといふと、その数だけの燈明を上げて出役する。一つの首を討つとその燈明が一つ消える。二つ討てば燈明が二つ消える。つけて行つただけの燈明が皆消えると、もう御役が済んだ、と家(うち)の者が云つたといふ、怪談じみた話も伝はつて居ります。
 この朝右衛門が何時から首斬役になつたかと申しますと、深川霊巌寺の境内にある成等院(じやうどうゐん)、これは紀伊国屋文左衛門の墓があるので知られてゐる寺ですが、そこに罪人を千人斬つたから、供養の為に建てたといふ、六字名號(ろくじみやうがう)を三方に彫つた六尺有余の石塔があつたさうです。これは只今もあるかどうか存じませんが、承応二年九月一日(じつ)と書いてあつたといふことです。承応二年までに千人も斬つたといふことになりますと、朝右衛門の首斬も新しいことでないやうですが、これは直ぐ丸呑にするわけにも行かないかと思ふ。といふのは、朝右衛門には前任者があつたといふことだからであります。
 小石川の砂利場に文政頃まで御留守居与力を勤めてゐた鵜飼十郎左衛門といふ人があります。場末のことでありますから、あまり人の目にもついてゐなかつたのでせうが、この鵜飼の家の茅葺の長屋門といふものは---二百石貰つてゐるのですから、さうえらいものではないんだけれども、その門桁に大きさ一尺ばかりの定紋(ぢやうもん)が嵌込んである。丸い形で木へ彫つたのですが、丸の中に一といふ字を書いた紋が嵌込んであつた。一体門に定紋をつけるのは、大名衆のことでありまして、大名以外の事としては、医者の半井大和守(なからゐやまとのかみ)、これは幕府の典薬頭(てんやくのかみ)だつた人で、この家以外には殆ど無いことでありますのに、鵜飼の家は定紋をつけてゐた。どうしてさういふ格外なことがしてあるかと申しますと、この鵜飼の先代は、若い時には新助と云つた人で、浅草の知樂院(ちらゐん)の中存(ちうぞん)の甥に当る人なのです。これが浅草に居りましたが、恐しい喧嘩早い、無法者で、度度斬つ斬られつの大喧嘩っをやり、当時名高い男だつた。それが後に幕府の御火(おひ)の番に召出されたのです。この鵜飼は山野邊吉左衛門の弟子で、据物斬(すゑものぎり)の名人でありましたから、人、渾名して『据物斬の十郎左衛門』と云つたといふ位である。それは将軍家の御道具御様(おためし)の事を書いたものゝ中に、元禄六年三月二十五日から六月二十七までに、二十六口(ふり)の御用をつとめて、胴試を仰付けられた、といふことが書いてある。無論これだけでは無かつたのでせうが、たま/\残つてゐる御書付にかういふものがあるのです、鵜飼は身長六尺二寸、力量は巣鴨第一と云はれ、やがて二の丸添番(そへばん)に進みましたが、様物(ためしもの)の御用は公儀からだけではなく、頼まれては閣老の下屋敷へ往(い)つて手腕を奮つたさうです、諸大名からも続々依頼がありました、胴を様(ため)すために牢屋から死罪の屍(かばね)を運んで来る、鵜飼は牢屋へ出張(でば)つては様(ため)さずに、屍を自宅へ持つて来させたのです、そこから考へますと首斬同心の代役を買つて出さうもありません、大分威張つたところもあり、おのづから見識も備はつてをります、山田朝右衛門は浪人でありますし、様物にも牢屋へ往き、段々馴合つて胴を様(ため)すのみならず、首の骨も様すやうになつたのでありませう、鵜飼は牢屋から死骸を運ばせたのですから、それが往々門違(かどちが)ひをして隣家を迷惑させたことが屡あつたさうです、是は他の物と違つて、門違ひをされては大変、物が物だけに持ち込まれた家では困るに相違ない、そこで門の桁へ定紋を付ける、当時の鵜飼は百俵五人扶持の分限だつたのですけれども、全く別段の沙汰を受けるやうになつたのでございます。鵜飼は元禄十三年に六十歳で隠居いたしまして、翌年傳通院の祐天和尚について剃髪いたし、名號と袈裟を授りまして、法名を文哲(もんてつ)と申した、今日では所在が知れませんが、その時喧嘩やら辻切やら、壮年から人を斬つた其の数(すう)も千五百人、供養塔を巣鴨火之番町(すがもひのばんまち)の自宅の奥と傳通院開山堂の西後に建てたと申します、この鵜飼が山田の前任者だといふ伝へがある。さうしてこの鵜飼なる者は元禄十三年に隠居したといふのですから、後任者の山田が承応年間に御用を勤めたといふ話は、をかしいやうな気もしますが、何もしつかりしたものが残つてゐないので、どうとも決着することが出来ません。

国立国会図書館デジタルコレクション