2017年8月21日月曜日

世事百談 巻之三  欺て寃魂を散

世事百談 山崎美成 青雲堂英文蔵梓 天保十四年十二月(1844)

巻之三 

    欺て寃魂を散(あざむきてゑんこんをさんず)

人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれたとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて未来善悪
の因となれる如く狂気するものも金銀のことか色情か事にのぞ
み迫りて狂(きやう)を発する時の一念をのみいつも口ばしりゐるものなりある
人の主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云をさにあらず家業といへ
ども殺生の報はあることゝて庭なる露しげく[お]きたる樹(き)をゆりみよと
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こたへけるまゝやがてその木(こ)の下(もと)に行て動しければその人におきたる
露かゝれりさてその人云やう怨みのかゝるもその如く云つけたる人よりは
大刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや諺にも盗(ぬすみ)する子は悪(にく)からで縄とり
こそうらめしといへるはなべての人情といふべしこれにつきて一話(はなし)あり何
某(なにがし)が家僕(かぼく)その主人に対し指(さし)たる罪なかりしがその僕(ぼく)を斬(きら)ざれば
人に対して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て主人その僕を手討にせん
とす僕憤り怨(うらみ)て云吾さしたる罪もなきに手討にせらる死後
に祟りをなして必取殺すべしと云主人わらひて汝何ぞたゝりを
なして我をとり殺すことを得んやといへば僕いや/\いかりてみよとり
殺さんといふ主人はらひて汝我を取殺さんといへばとて何の證(しよう)もなし
今その證を我にみせよその證には汝が首を刎(はね)たる時首飛で庭
石に齧(かみ)つけ夫(それ)をみればたゝりをなす證とすべしと云さて首を刎
たれば首飛びて石に齧つきたりその後何のたゝりもなくある人
その主人にその事を問(とひ)ければ主人こたへて云僕初(はじめ)はたゝりをなして我
を取殺さんとおもふ心切(こゝろせつ)なり後には石に齧つきてその験(しるし)をみせん
とおもふ志(こゝろざし)のみ専(もは)らさかんになりしゆゑたゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)
たるによりて祟なしといへり
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国文研究資料館 国文研鵜飼