2017年8月18日金曜日

太平百物語 巻之一 ○四 冨次郎娘蛇に苦しめられし事

作者 菅生堂人恵忠居士 畫工 髙木幸助貞武
享保十七年子三月吉日出来 (1732)
大坂心齋橋筋書林 河内屋宇兵衞新刊 

太平百物語冠首
市中散人裕佑(しちうさんじんゆうすけ)書

巻之一
   ○四 冨次郎娘蛇に苦しめられし事
越前の国に富次郎とて。代ゝ分限にしてけんぞくも数
多((あまた)持たり人有。此冨次郎一人の娘をもてり。今年十五才
なりけるが。夫婦の寵愛殊にすぐれ生れ付(つき)もいと尋常
にして。甚みめよく常に敷嶋の道に心をよせ。明暮(あけくれ)琴を弾(たん)じ
て。両親の心をなぐさめける。或時座敷の縁(ゑん)に出て庭の[気]色
を詠(ながめ)けるに。折節初春の事なれば。梅に木(こ)づたふ鶯のおのが時
得し風情にて。飛かふ様のいとおかしかりければ

   わがやとの梅がえになくうぐひすは
    風のたよりに香(か)をやとめまし

と口すさみけるを。母おや聞てげにおもしろくつゞけ玉
ふ物かな。御身の言の葉にて。わらはもおもひより侍ると
て取あへず

   春風の誘ふ垣ねの梅が枝(え)に
    なきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠(ゑひ)じられければ。此娘聞て実(げに)よくいひかなへさせたま
ひける哉と。互に親子心をなぐさめ楽しみ居(ゐ)ける所に。
むかふの樹木(じゆぼく)の陰より。時ならぬ小蛇壱疋する/\といでゝ。此
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娘の傍(そば)へはひ上るほどに。あらおそろしやと。内にかけいれ
ば。蛇も同じく付て入(いる)。人/\あはて立出(たちいで)て杖をもつて
追はらへども。少しもさらず。此娘の行方(ゆくかた)にしたがひ行く。母
人(はゝびと)大きにかなしみ夫(おつと)にかくと告(つげ)ければ。冨次郎大きに
おどろき。従者(ずさ)を呼て取捨させけるに。何(いづ)くより来る
ともなく。頓(やが)て立帰(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。幾度すてゝも
元のごとく帰りしかば。ぜひなく打殺(うちころ)させて遥(はるか)の谷に
捨けるに。又立帰りてもとの如し。こはいかにと切ども突
ども。生帰り/\て中/\娘の傍を放れやらず。両親を
はじめ家内の人/\。如何はせんと歎かれる。娘もいと
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浅ましくおもひて。次第/\によはり果。朝夕(てうせき)の食事とて
もすゝまねば。今は命もあやうく見へければ。諸寺諸社への
祈祷山伏ひじりの呪詛(まじなひ)。残る所なく心を尽せども。更
に其験(しるし)もあらざれば。只いたずらに娘の死するを守り
居(ゐ)ける。然(しか)るに当国永平寺の長老。ひそかに此事を聞
玉ひ。ふ便(びん)の事におぼし召。冨次郎が宅に御入有て。娘の
様体蛇がふるまひを。つく/\と御覧あり。娘に仰せける
やうは。御身座を立て向ふの方に歩み行べしと仰せに
したがひ。やう/\人に扶(たすけ)られ廿歩計行(にじつほばかりゆく)に。蛇も同しくし
たがひ行。娘とまれば蛇もとまる。時に長老又こなたへ

とおほせけるに。娘帰れば蛇も同じく立帰る所を長
老衣の袖にかくし。持玉ひし壱尺余りの木刀にて。此蛇が敷
居をこゆる所を。つよくおさへ玉へば。蛇行事能はずして。此
木刀を遁れんと。身をもだへける程。いよ/\強く押(おさ)へたま
へば。術(じゆつ)なくや有けん。頓(やが)てふり帰り木刀に喰付所を。
右にひかへ持玉ひし。小剣(こつるぎ)をもつて頭(かしら)を丁ど打落し玉ひ。
はや/\何方(いづかた)へも捨(すつ)べしと仰にまかせ。下人等(ら)急ぎ野辺
に捨ける。其時長老宣(のたま)ひけるは。最早(もはや)此後来(きた)る事努(ゆめ)
/\あるべからず。此幾月日の苦しみ両親のなげぎ。おもひ
やり侍るなり。今よりしては心やすかれとて。御帰寺(ごきじ)あ
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りければ。冨次郎夫婦は余りの事の有難(ありがた)さになみだを
ながして御後影(おんうしろかげ)を伏拝(ふしおが)みけるが。其後は此蛇ふたゝびき
たらず娘も日を経て本復(ほんぶく)し元のごとくになりしかば。
両親はいふにおよばず一門所縁(しよゑん)の人/\迄悦ぶ事かぎ
りなし誠に有難き御僧かなとて聞人感涙をながし
ける
   評じて曰。蛇木刀に喰付たる内。しばらく娘の事を忘れたり。其
   執心のさりし所を。害し給ふゆへに。ふたゝび娘に付事与(あた)はず。
   是併(しかしなが)ら。智識の行ひにて。凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一
   固に限らず。萬(よろづ)の事におよぼして。益ある事少からず。諸人能(よく)思(おも)へかし[候へ]
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早稲田大学図書館古典籍総合データベース

注:
11の画は第三話「真田山の狐伏見へ登りし事」の挿絵
第四話の画は、15にある。