2017年8月19日土曜日

捕物の話 火付盗賊改 首斬朝右衛門

捕物の話 三田村鳶魚 著 
早稲田大学出版部 昭和9年 (中公文庫 1996)

火付盗賊改 首斬朝右衛門

 火方盗賊改が新任されますと、その祝に松右衛門、善七が押かけて来る。さういふことは他の御役には無いことです。その来た時の様子が、津村淙庵(つむらそうあん)の『譚海(たんかい)』に書いてありますから、それを出し置きませう。

江戸にて火事御役(十人火消)加役(火方盗賊改)など仰付らるゝ時は、境町葺屋町(さかひちやうふきやちやう)等の三芝居の座本太夫祝儀にまいる例也、庭にすぢを割して堺をたて置、品川浅草の乞児(こじき)の長、松右衛門善七たちつけ羽織にて、玄関の左右の土間に坐し、式台に手をかけながら、此度は結構なる御役儀蒙らせられ、恐悦に存し奉るよしをのぶる、用人玄関に坐して礼をうくる、扨(さて)詞儀畢(じぎをはり)て、三芝居の者共御祝儀に参上致候よしを相述(あひのべ)、松右衛門善七左右にわかれ、向ひ坐する時、勘三郎(かんざぶらう)羽左衛門(うざゑもん)勘彌(かんや)等麻上下(あさかみしも)にて、門のくゝりより入(いり)、土間の堺をたて置たる所に座し、同様に祝詞を述、退出する事なり。

 いろ/\役向や扱に就て変つたこともありますが、その中でも非人頭が挨拶に来るといふことは珍しいと思ひます。そればかりではない、新任の披露状を首斬朝右衛門のところへ遣る。これは山田朝右衛門殿、誰組誰といふので、組下の与力両人の名前で、披露状を出す。かういふことも外の役には無いやうです。この文段も全文出し置きます。

以手紙致啓上候、然者此度誰々跡御役火付盗賊改被仰付候間可被得其意候、右之趣申入候様、頭申付候間如此御坐候。

(手紙を以て啓上致し候、然れ者(ば)此度誰/\跡御役火付盗賊改仰せ付け被(ら)れ候間其の意を得被(ら)る可(べ)く候、右之趣(おもむき)申し入れ候様、頭(かしら)申し付け候間此(かく)の如くに御坐候。)

 それから死罪の者がありました時、同心を使にして、火方盗賊改の役所から朝右衛門の出役を求めます。その手紙も珍しいものと思ひますから、文例を出して置きます。

明幾日、牢屋敷何時揃二而(て)、死罪之者何人御仕置申付候間、例之通(れいのとほり)御出役(ごしゆつやく)可有之候(これあるべくさふらふ)。以上。
  月 日

 首斬朝右衛門といふと、誰でも知つて居(を)りますが、あれは町奉行の役人でもなければ、牢屋の役人でもなし、火方盗賊改の役人でもない。幕府の役人では無論ありません。誰の禄を貰つてゐる人間でもないのです。一体死罪、斬罪等の者の首を討ちますのは、町奉行の方とすると、一番年の若い同心の役になつてゐるのですが、火方盗賊改に致しても、やはり同心の役になつて居(を)ります。この浪人山田朝右衛門は、いつからさういふ慣例になつてゐるかわかりませんけれど、首斬役の同心と相対(あひたい)で代役をする。その時は検使として御徒目付、与力、同心等が牢屋の役人と共に立合ふのですが、皆慣例を承知して居りますから、別に何とも云ふ者も無い。それから面白いことは、当役の同心が実際に首を討ちますと、刀の研代(とぎだい)として二分づつ下されがある。それを朝右衛門に譲つて首を討たせますと、二分は自分のものになるのみならず、朝右衛門は諸家から刀を試して貰ひたいと云つて頼まれて居りますので、その方から礼を貰つてゐる。だから役を譲つた同心の方へは、朝右衛門から礼金が来る。さういふわけで自然役を譲るやうになつてしまつたのです。
 牢屋の中で首を討つのは、獄門になるのもやはり牢内で斬るのですが、斬罪と申ますのは刑場へ引出(ひきだ)して斬る。死罪は牢屋の中で首を斬るのです。その外に下手人と云つて、死罪になる者がありますが、此等は皆首を刎ねる。そううち様物(ためしもの)と云ひますと、これにもいろ/\作法がありますが、二ツ胴、四ツ胴などと云つて、死骸を重ねて斬る。さうして刃物を試すことになるのです。普通様物(ためしもの)と云ひますと、獄門は勿論、斬罪、下手人は様物(ためしもの)にしない。死罪になるものだけを様物にする。本来刀剣の試しを致すのでありますから、様物にしていいと法律に規定してある罪人だけを、朝が斬る筈なのですが、他の死刑になる罪人をも扱つたらしい。厳密に云へば様物(ためしもの)になるものだけでなければならぬわけなのです。
 麹町平河町(かうぢまちひらかはちやう)の朝右衛門の宅では、金二分づつ出すと、労症(らうしやう)の薬といふものをくれる。それには人胆(じんたん)が入れてあると云はれて居りました。果して人胆が入つてゐるかどうか、わかりはしないのですが、江戸時代にはさう云つて騒立てたものなのです。朝右衛門の宅では、今日は幾人死刑になる者があるといふと、その数だけの燈明を上げて出役する。一つの首を討つとその燈明が一つ消える。二つ討てば燈明が二つ消える。つけて行つただけの燈明が皆消えると、もう御役が済んだ、と家(うち)の者が云つたといふ、怪談じみた話も伝はつて居ります。
 この朝右衛門が何時から首斬役になつたかと申しますと、深川霊巌寺の境内にある成等院(じやうどうゐん)、これは紀伊国屋文左衛門の墓があるので知られてゐる寺ですが、そこに罪人を千人斬つたから、供養の為に建てたといふ、六字名號(ろくじみやうがう)を三方に彫つた六尺有余の石塔があつたさうです。これは只今もあるかどうか存じませんが、承応二年九月一日(じつ)と書いてあつたといふことです。承応二年までに千人も斬つたといふことになりますと、朝右衛門の首斬も新しいことでないやうですが、これは直ぐ丸呑にするわけにも行かないかと思ふ。といふのは、朝右衛門には前任者があつたといふことだからであります。
 小石川の砂利場に文政頃まで御留守居与力を勤めてゐた鵜飼十郎左衛門といふ人があります。場末のことでありますから、あまり人の目にもついてゐなかつたのでせうが、この鵜飼の家の茅葺の長屋門といふものは---二百石貰つてゐるのですから、さうえらいものではないんだけれども、その門桁に大きさ一尺ばかりの定紋(ぢやうもん)が嵌込んである。丸い形で木へ彫つたのですが、丸の中に一といふ字を書いた紋が嵌込んであつた。一体門に定紋をつけるのは、大名衆のことでありまして、大名以外の事としては、医者の半井大和守(なからゐやまとのかみ)、これは幕府の典薬頭(てんやくのかみ)だつた人で、この家以外には殆ど無いことでありますのに、鵜飼の家は定紋をつけてゐた。どうしてさういふ格外なことがしてあるかと申しますと、この鵜飼の先代は、若い時には新助と云つた人で、浅草の知樂院(ちらゐん)の中存(ちうぞん)の甥に当る人なのです。これが浅草に居りましたが、恐しい喧嘩早い、無法者で、度度斬つ斬られつの大喧嘩っをやり、当時名高い男だつた。それが後に幕府の御火(おひ)の番に召出されたのです。この鵜飼は山野邊吉左衛門の弟子で、据物斬(すゑものぎり)の名人でありましたから、人、渾名して『据物斬の十郎左衛門』と云つたといふ位である。それは将軍家の御道具御様(おためし)の事を書いたものゝ中に、元禄六年三月二十五日から六月二十七までに、二十六口(ふり)の御用をつとめて、胴試を仰付けられた、といふことが書いてある。無論これだけでは無かつたのでせうが、たま/\残つてゐる御書付にかういふものがあるのです、鵜飼は身長六尺二寸、力量は巣鴨第一と云はれ、やがて二の丸添番(そへばん)に進みましたが、様物(ためしもの)の御用は公儀からだけではなく、頼まれては閣老の下屋敷へ往(い)つて手腕を奮つたさうです、諸大名からも続々依頼がありました、胴を様(ため)すために牢屋から死罪の屍(かばね)を運んで来る、鵜飼は牢屋へ出張(でば)つては様(ため)さずに、屍を自宅へ持つて来させたのです、そこから考へますと首斬同心の代役を買つて出さうもありません、大分威張つたところもあり、おのづから見識も備はつてをります、山田朝右衛門は浪人でありますし、様物にも牢屋へ往き、段々馴合つて胴を様(ため)すのみならず、首の骨も様すやうになつたのでありませう、鵜飼は牢屋から死骸を運ばせたのですから、それが往々門違(かどちが)ひをして隣家を迷惑させたことが屡あつたさうです、是は他の物と違つて、門違ひをされては大変、物が物だけに持ち込まれた家では困るに相違ない、そこで門の桁へ定紋を付ける、当時の鵜飼は百俵五人扶持の分限だつたのですけれども、全く別段の沙汰を受けるやうになつたのでございます。鵜飼は元禄十三年に六十歳で隠居いたしまして、翌年傳通院の祐天和尚について剃髪いたし、名號と袈裟を授りまして、法名を文哲(もんてつ)と申した、今日では所在が知れませんが、その時喧嘩やら辻切やら、壮年から人を斬つた其の数(すう)も千五百人、供養塔を巣鴨火之番町(すがもひのばんまち)の自宅の奥と傳通院開山堂の西後に建てたと申します、この鵜飼が山田の前任者だといふ伝へがある。さうしてこの鵜飼なる者は元禄十三年に隠居したといふのですから、後任者の山田が承応年間に御用を勤めたといふ話は、をかしいやうな気もしますが、何もしつかりしたものが残つてゐないので、どうとも決着することが出来ません。

国立国会図書館デジタルコレクション

2017年8月18日金曜日

太平百物語 巻之一 ○四 冨次郎娘蛇に苦しめられし事

作者 菅生堂人恵忠居士 畫工 髙木幸助貞武
享保十七年子三月吉日出来 (1732)
大坂心齋橋筋書林 河内屋宇兵衞新刊 

太平百物語冠首
市中散人裕佑(しちうさんじんゆうすけ)書

巻之一
   ○四 冨次郎娘蛇に苦しめられし事
越前の国に富次郎とて。代ゝ分限にしてけんぞくも数
多((あまた)持たり人有。此冨次郎一人の娘をもてり。今年十五才
なりけるが。夫婦の寵愛殊にすぐれ生れ付(つき)もいと尋常
にして。甚みめよく常に敷嶋の道に心をよせ。明暮(あけくれ)琴を弾(たん)じ
て。両親の心をなぐさめける。或時座敷の縁(ゑん)に出て庭の[気]色
を詠(ながめ)けるに。折節初春の事なれば。梅に木(こ)づたふ鶯のおのが時
得し風情にて。飛かふ様のいとおかしかりければ

   わがやとの梅がえになくうぐひすは
    風のたよりに香(か)をやとめまし

と口すさみけるを。母おや聞てげにおもしろくつゞけ玉
ふ物かな。御身の言の葉にて。わらはもおもひより侍ると
て取あへず

   春風の誘ふ垣ねの梅が枝(え)に
    なきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠(ゑひ)じられければ。此娘聞て実(げに)よくいひかなへさせたま
ひける哉と。互に親子心をなぐさめ楽しみ居(ゐ)ける所に。
むかふの樹木(じゆぼく)の陰より。時ならぬ小蛇壱疋する/\といでゝ。此
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娘の傍(そば)へはひ上るほどに。あらおそろしやと。内にかけいれ
ば。蛇も同じく付て入(いる)。人/\あはて立出(たちいで)て杖をもつて
追はらへども。少しもさらず。此娘の行方(ゆくかた)にしたがひ行く。母
人(はゝびと)大きにかなしみ夫(おつと)にかくと告(つげ)ければ。冨次郎大きに
おどろき。従者(ずさ)を呼て取捨させけるに。何(いづ)くより来る
ともなく。頓(やが)て立帰(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。幾度すてゝも
元のごとく帰りしかば。ぜひなく打殺(うちころ)させて遥(はるか)の谷に
捨けるに。又立帰りてもとの如し。こはいかにと切ども突
ども。生帰り/\て中/\娘の傍を放れやらず。両親を
はじめ家内の人/\。如何はせんと歎かれる。娘もいと
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浅ましくおもひて。次第/\によはり果。朝夕(てうせき)の食事とて
もすゝまねば。今は命もあやうく見へければ。諸寺諸社への
祈祷山伏ひじりの呪詛(まじなひ)。残る所なく心を尽せども。更
に其験(しるし)もあらざれば。只いたずらに娘の死するを守り
居(ゐ)ける。然(しか)るに当国永平寺の長老。ひそかに此事を聞
玉ひ。ふ便(びん)の事におぼし召。冨次郎が宅に御入有て。娘の
様体蛇がふるまひを。つく/\と御覧あり。娘に仰せける
やうは。御身座を立て向ふの方に歩み行べしと仰せに
したがひ。やう/\人に扶(たすけ)られ廿歩計行(にじつほばかりゆく)に。蛇も同しくし
たがひ行。娘とまれば蛇もとまる。時に長老又こなたへ

とおほせけるに。娘帰れば蛇も同じく立帰る所を長
老衣の袖にかくし。持玉ひし壱尺余りの木刀にて。此蛇が敷
居をこゆる所を。つよくおさへ玉へば。蛇行事能はずして。此
木刀を遁れんと。身をもだへける程。いよ/\強く押(おさ)へたま
へば。術(じゆつ)なくや有けん。頓(やが)てふり帰り木刀に喰付所を。
右にひかへ持玉ひし。小剣(こつるぎ)をもつて頭(かしら)を丁ど打落し玉ひ。
はや/\何方(いづかた)へも捨(すつ)べしと仰にまかせ。下人等(ら)急ぎ野辺
に捨ける。其時長老宣(のたま)ひけるは。最早(もはや)此後来(きた)る事努(ゆめ)
/\あるべからず。此幾月日の苦しみ両親のなげぎ。おもひ
やり侍るなり。今よりしては心やすかれとて。御帰寺(ごきじ)あ
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りければ。冨次郎夫婦は余りの事の有難(ありがた)さになみだを
ながして御後影(おんうしろかげ)を伏拝(ふしおが)みけるが。其後は此蛇ふたゝびき
たらず娘も日を経て本復(ほんぶく)し元のごとくになりしかば。
両親はいふにおよばず一門所縁(しよゑん)の人/\迄悦ぶ事かぎ
りなし誠に有難き御僧かなとて聞人感涙をながし
ける
   評じて曰。蛇木刀に喰付たる内。しばらく娘の事を忘れたり。其
   執心のさりし所を。害し給ふゆへに。ふたゝび娘に付事与(あた)はず。
   是併(しかしなが)ら。智識の行ひにて。凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一
   固に限らず。萬(よろづ)の事におよぼして。益ある事少からず。諸人能(よく)思(おも)へかし[候へ]
13

10-13
早稲田大学図書館古典籍総合データベース

注:
11の画は第三話「真田山の狐伏見へ登りし事」の挿絵
第四話の画は、15にある。

2017年8月12日土曜日

今古実録 怪談皿屋敷実記

今古実録 怪談皿屋敷実記 :  栄泉社 明治19年

古今実録序詞
我往古一度文物の端を開き稍(やゝ)盛典の時と得しも中世(ちうせい)の戦国乱離を極め古書歴史は多く兵燹(へいせん)に羅り其存する者数部を闕けり此年歴文物(このねんれきぶんぶつ)も又廃れ学事を保する者纔(わづか)に浮屠氏(ふとし)に過ず近世(きんせい)足利氏以降元亀天正の頃まで武門に博識の徒出(いで)しもあれど猶干[才(戈)]止む時なく文学たま/\公卿武家に波及するのみ期(とき)に僧侶なくんば平家物語太平記諸軍記の編述今世(こんせい)に傳ふるなきに至らん歟(か)故に我国の軍記史略に多く佛語を引く者は蓋し釈氏の手に成しを以てなり坊間貸本と称ふる俗書の今に傳ふるも是又僧徒の著述に成る物数巻(すくわん)その事跡虚を省き最も実に近きを撰(えら)み尚ほ引証に依て校正全き栄泉社中の蔵版に於る世の貸本を網羅して略尽(ほゞつく)せるの功勉(こうつとめ)たりと云も可(か)ならん此(こゝ)に於て今古実録(きんこじつろく)の題名目下世間に普(あまね)きも亦宜(むべ)ならずや以て簡端(かんたん)に序すると爾云(しかいふ)
 明示一九年第四月 佛骨庵主 仮名垣魯文曳誌

怪談更屋敷実記序
名さへなまめく姫路の城下浅山鉄山が下館(しもやかた)とは彼(かの)幕明の置浄瑠理(おきじようるり)其実録を今玆に書綴りたる此史(このふみ)はと云ば弊社の作らしいが一字(すこし)も著述の筆労(ほねをり)なく古昔(むかし)の人の水ぐきの跡を其まゝ梓(デハナイ)活字に拾ひ大安売の二冊もの願ふは四方(よも)の評判ヂヤ/\
                               栄泉社員虚述


  ○粂(くめ)の平内(へいない)由緒生立(ゆいしよおひたち)の事 
        並 盗賊を打果す事
其頃江戸の浪人者ににて粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)と云大胆不敵の武士(さふらひ)あり其祖父は織田信長公の足軽を勤務(つとめ)武勇も人に優(まさ)りし者なりしが京都本能寺に於て信長公御生害(ごしやうがひ)有し後其身の生国武州八王子に引籠り剣術を指南なし一生浪人にて生計(くらし)けるが其子薪兵衛(しんべゑ)は父の業を嗣(つぎ)門人も数多有て是も生涯浪人にて世を安々生計(くらし)けるに男女三人の小児(こども)有て男児を平五郎と呼後に平内兵衛(へいないびやうゑ)と號(なづ)く其生質怜悧(そのうまれつきれいり)にして筋骨(すぢぼね)太く逞く身の丈は六尺有余(あまり)にして又力量も双(ならび)なく剣術柔術共に父の極秘を授与(さづけ)られ其成長するに随ひては骨柄芸能(こつがらげひのう)共に父にも優りて一廉(かど)の者なれ共唯大酒(たひしゆ)を好み力量自慢(ちからじまん)にして近郷近在を暴れ歩行(あるき)人を人とも思はず良(やゝ)もすれば無体に打擲する事屡々有しかば父の薪兵衛も之を洩聞て時々異見を加ふれども更に其辞(ことば)を用ひず、父薪兵衛は是を気病(きやみ)になし終(つひ)に空敷(むなしく)なりにける然(さ)れば其後平五郎は倍々(ます/\)自慢の心を生じ今恐らくは我に優りし武芸力量の者近郷近村には是有まじ此上(このうへ)は諸国を武者修行して諸人の腕を試み其後江戸へ出(いで)仕官にも有付べし且(かつ)老母には父の求め置れし田地あれば不自由も有まじ殊更に姉妹等(あねいもとら)傍らに在て労り介抱すれば深く案ずるに及ばず此事母へ告なば歎き悲しみて許し給ふまじ寧ろ一通を遺書(かきのこ)して立退(たちのく)に如ずと思ひ定めて或夜心安き方に至りて一泊し窃(ひそか)に旅(たび)の支度をなし住馴し国を立去(たちさり)名をも粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)と改め一先(ひとまづ)川越の城下に到りてニ三日の程逗留し此処彼処(こゝかしこ)と徘徊しけれども是と云相手に立べき者も無(なか)りけるにより不斗(ふと)思ひ出(いだ)せしには上州は百姓町人に至る迄勇気強く武芸を磨く土地(ところ)なれば彼地に到りて力量武術を顕はさんと決定し直ちに上州高崎に到り宿を需(もとめ)日毎/\に相手欲やと心待して居ける折柄此土地近き里の大(おほ)百姓の家に二十余人の夜盗(よたう)入て抜身を鼻の先に突付金銀衣類の在処(ありしよ)をば素直に案内すればよし隠し立して怪我するなと威(をと)し文句で責付られしに大勢なれ共百姓の事故誰とて拒む者もなく生命(いのち)に替る財宝(たから)なしと土蔵(くら)の中(うち)へ案内せし間に小賢(こさか)しき男一人脱出し宿中へ走り行て斯様/\と急遽(あはたゞ)しく喚(さけ)びけるにぞ俄然(にはか)に宿中の者共騒ぎ立(たち)しか共二十人余(よ)の強盗と云ひ殊に得物を持て居るとの事故皆々恐怖(おぢおそれ)誰とて向(むか)はんと云者なく唯々遠巻になし拍子木薬缶の蓋或ひは太鼓の類を手当り次第にグワン/゛\打鳴しけるに彼(かの)平内兵衛(へいないびやうゑ)は寝耳に聞付(きゝつけ)何事の起りしやと様子を聞くに大家(たいけ)へ強盗廿余人押入唯今土蔵(くら)の中(うち)に居るとの事を打聞(うちきゝ)平内(へいない)は雀躍(こをどり)して爰ぞ日来(ごろ)の望む所ニ十人や三十人の強盗共が押入りたりとて何程の事や有んと予て用意の鎖帷子を着(ちやく)しニ尺八寸の新身(あらみ)の業物(わざもの)を帯び三尺有余(あまり)の鉄杖(てうじやう)を携へ飛が如くに駈出(かけいだ)し皆々我に続くべしと云つゝ傍(かた)へを見遣り火鉢の灰を掴み出(いだ)して銘々是を紙に包みて目潰しに打付(うちつけ)べしと指揮(さしづ)をなし又一目散に彼処(かしこ)へ走り着様子を見るに強盗共は緩々(ゆる/\)と土蔵(くら)の中(うち)にて荷作り最中故機(をり)こそよけれと平内(へいない)は持(もた)せ来りし灰を取出(とりだ)し盗人と見たらば無二無三に其灰を投付よあは能(よく)ば擲(なぐ)り倒せと云含め平内兵衛は真先に進み土蔵(くら)の戸口に立塞(たちふさ)[が]り大音声に呼(よば)はりけるは此中(このうち)なる盗賊奴等(どうぞくめら)早/\此所(こゝ)に立出(たちいで)よ片端より細首引抜得さすべし斯云(かくいふ)某(それが)しは日本国中武者修行に数年(すねん)の琢磨を経たる武州八王子の住人粂(くめ)の平内兵衛道則(へいないひやうゑみちのり)なり仮令鬼神(きじん)と雖も我名を聞(きか)ば恐怖(おそれ)戦慄(おのゝ)きて遠く其後を避(さく)るなり我今宵此宿(しゆく)に泊り合せしは汝等が運の尽る所なれば神妙に詫言(わびこと)して退ぞくば生命(いのち)だけは助け得さすべし然(さ)もなくば即座に眼に物見せて呉(くれ)んずと罵りつゝ如何にや如何にと呼はれど盗人共は有無(うむ)の答もなく小癪なり切殺せと云まゝ一同に抜連(ぬきつれ)切(きつ)て懸るに平内兵衛は少も騒がず抜合(ぬきあは)せ上段下段と対戦(あしらひ)居りしが後より追付来りし宿内の若者等十四五人予て平内の指揮(さしづ)に因(よつ)て紙に包みし灰玉を目潰しに投付けるに家内の男等も是を見て得たりや得たりと灰を包み手当り次第に賊の面部へ打付し故盗人共は是に辟易なし其出口をさへ踏迷ひ狼狽廻る処を平内手早く片端より切捨/\何の苦もなく二十余人の盗人どもを切殺しければ此家(このや)の主は云に及ばず宿中(しゆくちう)の者共歓ひ大方ならず平内兵衛が技術(てなみ)を感じ合しが斯(かく)なる上は此死骸を如何致して宜しいからん後々の事を打案じ万一(もし)此儘捨置たらんには仲間の者共何時かは仕返しに来るべしとて評議区々(まち/\)なるを聞(きゝ)平内兵衛は主に向ひ今夜の始末を明細に土地(ところ)の代官所へ訴へ表向指揮(さしづ)に随ひ取計らひなば後/\の愁は有まじと申にぞ是に同意して早速此趣(おもふ)きを訴へければ直様役人等出張なし賊の死骸を検査(あらため)取捨方等(とりすてかたとう)を申付又平内兵衛の働作(はたらき)を感賞し事故なく検使も相済(あひすみ)ければ此家(このや)の主人(あるじ)は大いに歓び全く平内兵衛が勇猛の働きに依て厄難を遁れたりとて厚く謝礼抔(など)して尊敬(そんきやう)なしければ所の者共平内が武術は日本一などゝ評判なすにより今は日来(ひごろ)の慢心百倍し凡そ天が下広しと雖も我に及ぶ者は有まじと思ひ以後他国を廻るも益なき事をて是より江戸に至りて高名なる剣術の師匠を訪(とひ)是を打すゑて技術(てなみ)を顕し過分の禄に有付(ありつか)ん者と心を定め所の人々名残を惜むにも構はず聊か江戸に知音有を頼みにして高崎を打立一先江戸へと赴きけり

  ○青山主膳平内を召抱へ平内首切役を望む事
    並 罪人打首の節頓智及び平内死去の事
却説(かくて)粂の平内兵衛(へいないびやうゑ)は程なく江戸に到着なし本郷辺(へん)に住居を定め剣術指南の道場を開きける所(ところ)僥倖(さいはひ)に門弟等も殖(ふえ)るに随ひ或人の勧めにより妻を迎へ一子迄も挙(もう)けしが天性強気(がうき)の平内故往来(ゆきゝ)の者を打擲などする事屡々有しが其頃江戸に男侠客(をとこだて)と云事の流行し将軍家旗本の中(うち)にも大小神祇組(しんぎぐみ)又は白柄組(しらつかぐみ)などあり町家(ちやうか)にも同く侠客(をとこだて)流行して其中(そのうち)には浪人なども入交(いりまじ)り居(をる)ゆゑ平内も盛り場等(とう)人の群集(くんじゆ)する土地へ出(いで)ては弱きを助け強きを挫きて男を磨きけるに付(つき)自然と人々も尊敬(そんきやう)成して其名最も高く聞えしを青山主膳は疾くも聞込役柄成れば召抱て役に立事も有べしと思ひ自身に粂の宅に到り礼を厚くして懇望(こんまう)成せしに平内には素より小碌(せうろく)の人に抱へられるは不足なりと雖も是も後々には何かの都合に宜しからんと早速に承知せしかば青山の歓悦(よろこ)び限りなく過分の碌を与へ用人並を申付しに同気相求(どうきあいもと)むる主従の縁にや彼(かれ)がする事なす事悉皆(みな)心に適ひしかば青山は倍々(ます/\)不仁(ふじん)の行ひ募り日々平内を対手(あいて)に酒宴を開き又は罪人を責させるを此上(こよ)なき娯楽(たのしみ)と成(なせ)しが或日平内には死罪の者の首切役を懇望(こんまう)しけるに主人主膳是を聞(きゝ)彼が強気(がうき)にては必ず手際も宜しからんと之を許せしが是ぞ首切役の最初(はじめ)なり夫(それ)より伝はりて山田浅右衛門と云者代々其役を勤(つとむ)ると雖も其根本(もと)を訪ぬれば主膳の勤役(きんやくちう)に其役の人を極(きめ)しと云又粂の平内兵衛が千人塚とて罪人の首を千切[た]る故役中(やくちう)に二度迄塚を建し事あり山田浅右衛門も麻布の善福寺に千人塚を建たるは前にも云如く諸人の知る処にして今に存せり然るに粂の平内は或時大勢の死罪人を牢屋の前に居並(すゑなら)べ自ら傍へ立寄(たちより)先最初(まづさいしよ)の一人を切らんとする時罪人は此方(こなた)に向ひ我只今首を切られなば向ふの草へ喰付て見せんと云しに頓(やが)て首が落(おつ)ると其儘言葉に違(たが)はず遥か彼方の草にぞ喰付ける次の死罪人我は那(あ)の石に喰付(くひつか)んと云しに是も同じく前の如く石に喰付たり扨(さて)其次の一人(にん)平内を見て我は切手(きりて)の粂殿に喰付(くひつく)べしと云を聞(きゝ)平内も流石に気味悪く思ひしかども人の見る目も恥ければ屹度(きつと)意(こゝろ)に思案して罪人に向ひ汝(おのれ)今が最期なり覚悟すべしと云(いへ)ば如何にも心得たり頓(やが)て汝(なんぢ)に喰付て見せんと然(さ)も怨めしき顔色にて一念の凝る所をエイト云様(いひさま)刀の峯打(みねうち)になせしかば罪人是はと振向く処を気を抜(ぬき)て何の苦もなく首を打落したり彼(かの)死罪人は張詰(はりつめ)し気も峯打に拍子抜せし所を打落しければ罪人の一念も届かざりしとなり一座の人々其頓智を感じて評判最(もつ)とも高かりけるが夫よりして平内兵衛不図煩ひ付(つき)日々鬱々として居たりけるが小雨の降る日などは数多の首ども眼前(めさき)に顕(あら)はれ粂殿迎ひに参りしぞや率々(いざ/\)早く来(きた)らるべしと云ながら平内に飛蒐(とびかゝ)らんと成(なし)けるを平内臆せず刀おつ取切払へば忽地(たちまち)消て跡もなく白刃(しらは)を鞘に納むれば又顕出(あらは)れて驚かす事其後は昼夜の別(わか)ちなく首の数は漸次(しだい)に増(まし)て或は怨み又は罵り粂殿にははや命数尽たり夫故(それゆゑ)我々打揃ひて迎へに参りしなりいざ倶々(とも/゛\)来れと飛付て手取足取責られしに流石の平内も身体疲労(つか)れ日々に衰弱なしアレ囂(かまび)すや堪難(たへがた)やと狂ひ廻れど彼(か)の首は家内の者に見えずして唯平内の眼前(めさき)を放(はな)れず悶え苦しむ有様を見て人々種々に療養を加へしかども毫(すこし)も効験(しるし)の無くソレ其首を捨よソレ切払へと罵り後には刀を引抜狂ひ廻りけるに付(つき)家内の心配大方成ず終(つひ)には止(やむ)を得ず平内の身体(からだ)に縄をかけ罪人の如く捕縛置(いましめおき)しかば是よりして平内は尚々大声を発して詈(のゝし)り騒ぐ事昼夜絶(たゆ)る間なく汝等大罪人で有ながら卑怯にも我を怨恨(うらみ)斯(かく)苦しむるは何事ぞ其身の自業自得なり未練者めと詈(のゝし)りつゝソレ首打と叫びける故皆(みな)人恐怖(おそれ)て側(そば)へ寄付者なく且は世間へ遠慮も有ば昼も戸障子を締切大概(およそ)百日有余(あまり)苦痛なし終には声も枯切只手足を?く耳なりしが皮肉も摩擦切(こすりきれ)て海老を茹たる如く赤肌に爛れ上(あが)り狂ひ死(じに)にぞ死(し)したりける斯(かゝ)りし程に妻子(つまこ)の歎きは云(いふ)も更なり人々も気の毒に思ひ跡念頃(ねんごろ)に弔ひて七日/\の供養法事も怠りなく執行(とりおこな)ひけるが四十九日に至りし夜(よ)妻の枕辺(まくらべ)に平内来り我生涯の積悪不仁(せきあくふじん)の罪重りて地獄の呵責に寸暇(いとま)なし然(しか)れば其業消滅の為我像を石に彫刻(ほら)せ人足(ひとあし)の繁(しげ)き場所(ところ)へ建置(たておき)て万億の人に曝し呉(くれ)よ然(さ)すれば罪も少しは消滅(めつ)し未来の為にも成らんかといふかと思へば影消て更行(ふけゆく)鐘ぞ聞えける扨は夢にて有しかと妻は此事打案じ人に語るも恥(はづ)かしく一日(ひとひ)/\と過(すぐ)る中(うち)夜毎(よごと)/\の夢の告(つげ)に止事(やむこと)を得ず子息(せがれ)を始め人々いも相談なし平内兵衛(へいないびやうゑ)の石像を彫刻(ほら)せ人足(ひとあし)多きは浅草金龍山(あさくさきんりうざん)なる観世音の境内に超所(こすところ)なしとて百ケ日目に濡仏(ぬれほとけ)を建立して露霜にうたせ未来の苦患(くげん)を助けんと弁天山の近傍(ほとり)に是を建たりけり其後何者が云出(いひいで)けん此濡仏に利益(りやく)有とて人足の絶ざりければ境内の茶店(ちやゝ)揚弓店(やうきうみせ)の婦女共(をんなども)など此粂の平内様へ願へば何事にても叶ふとて尊敬(そんきやう)せし余り小き祠を立て安置しける故愈々市中に評判高く成(なり)信仰人(しんかうにん)は倍々(ます/\)増殖(ふゑ)て其仏力(ぶつりき)を授け給へば立身出世奉公望(ほうこうのぞみ)主従和合(しゆう/゛\わがふ)縁結び又は恋路の取持(とりもち)中にも遊女芸者等(ら)客縁は勿論(もちろん)年明情郎(ねんあけよきひと)に添(そは)るゝとか或ひは金銀の貸借(かしかり)万端(よろづ)の願ひ一ツとして成就せざるはなく殊に一筆(ひとふで)しめしまゐらせ候又は一筆啓上などゝ己(おのれ)/\が祈願(ねぎごと)を文(ふみ)認(したゝ)め捧ぐれば利益必らず著明(いちじ[ろ])しとて祠の中へ投入る手前勝手も多かりけり然るに其頃の事なりしか神田紺屋町に仕入の染物を渡世(とせい)になし相澤屋亀右衛門とて近隣に双(なら)びなき豪家(がうか)にして職人ども日々ニ三十人づゝ立働き男女(なんによ)の奉公人も大勢召使ひ其一家(いつけ)豊に生計(くら)せしが一人の娘有名をお染と呼年は二八の花盛り人の目に立(たつ)愛敬(あいきやう)に一しほ両親(ふたおや)も愛(いつく)しみ深く此隣家(このとなり)に岩国屋半四郎と云紙問屋あり是も福有(ふくいう)の大商人(おほあきんど)にて其家に二人の男子有(なんしあり)惣領を美之助(みのすけ)と呼次男を政次郎と云(いふ)生質肌目細(うまれつきゝめこま)かにして色白く親に勝れし美男なりとの評判なりしが彼娘(かのむすめ)お染は何時しか美之助を見染(みそめ)て恋慕(こひしたひ)けれ共互ひに大家(たいけ)の事故内外(うちと)の人目も繁く言寄間(いひよるひま)も有ざれば心の中(うち)に思ふ耳(のみ)にて日夜胸を焦し居たりしに一日(あるひ)下女共寄集り此頃世間に風聞高(とりさたゝか)き浅草の粂の平内様は其利益著明(あらたか)にして何事も叶はぬと云事なく殊に恋路の取持は速かに叶ふと云噂話しをなし居たるを聞(きゝ)て娘お染は密かに悦喜(よろこび)其翌日母(はゝ)に打向ひア[ノ]浅草の観音様へ百日参りをなせば御両親様を始め家内安全家繁昌し又好縁(またよきえん)をも結び一生夫に見限られぬとか云事を何かの本にて見し事あり何卒(どうぞ)お参詣(まゐり)致したしと強(しひ)ての望みに素より愛子(あいし)の立願故父にも斯(かく)と告(つげ)けるに直(たゞ)ちに許しの出(いで)たるにぞ日頃気に入の下女を招き密(ひそか)に心を打明(うちあか)し倶(とも)に談合(かたらひ)ながら文(ふみ)細々(こま/゛\)と書認(したゝ)め下女丁稚を召連て浅草寺(あさくさでら)へぞ急ぎける折柄其日は十八日の縁日にて参詣人も群集(くんじゆ)するに二人は観音堂を忽(そこ)/\に拝み直様(すぐさま)粂の祠に到り彼(か)の文を捧げて一心不乱に祈願(きぐわん)を籠夫より日々に通ひしが十七日目(ひとなぬかめ)の日(ひ)例(いつも)の如く懇情(ねんごろ)に拝み居たる傍らより供女(ともをんな)が袂を引故何事やらんと振向見れば今も今とて恋慕ふ心の丈を念願(ねんじ)たる彼の美之助が此方(こなた)を指て来るにぞ余りの事の嬉しさに胸轟きて忙然と顔打眺り居たりしが美之助は傍に立寄是はお隣の娘子(むすめご)ひよんな所でお目に懸(かゝ)りました見れば忍びの御参詣而(して)粂さまへのお願は荒増(あらまし)お察し申ましたが世の中にはお羨ましいお人もあるものお楽しみでござりますと云に娘は顔赤らめ如何にも恥らふ有様故彼(かの)美之助は如才なく傍辺(かはへ)の下女に声を掛(かけ)最早(もはや)御支度時分なり奥山を御案内ながらお供を致して参りませうと言(いは)れて嬉しく恥かしく間の悪さうなお染の素振りに下女は傍(そば)から急立(せきたつ)て丁度好お道連サア/\お供と云ふのを機会(しほ)に彼方此方(あちこち)と奥山を見巡(みまは)り其頃名高き菜飯茶屋(なめしちやゝ)へぞ入(いり)にける其後相沢屋の娘は日々浅草へ参詣するに随(したが)ひて顔色(がんしよく)漸次(しだい)に青ざめ何(なに)となく様子も平常(つね)に変りしかば母は大いに案じ供の下女に段々様子を尋ぬれ共最初の程は只管(ひたすら)に押隠して云ざりが猶も種々に問詰られ詮方尽て有の儘少しも隠さず説話(はなし)ければ母親は大いに驚き如何に深く云交(いひかは)すとも一人娘の事故他家へ遣(やる)事も成難く又隣家の子息(むすこ)も跡取の事なれば此方(こなた)へも呉まじ然(さ)すれば互に始終の為ならず然(さり)とて此事父に説話(はな)せば嘸(さぞ)や立腹する成(なら)んと千々(ちゞ)に心を痛めしが年老し手代を招き内々事の始末を言含め隣家(となり)の両親へ密に説話(はなさ)せけるに岩国屋にては此事を聞(きゝ)て以ての外に驚き当家の惣領息子は先般(さきごろ)近所の火事の時踏抜(ふみぬき)をなし凡そ一ヶ月も跡より平臥居(ふせりをり)今に座敷の内さへも歩行兼(あるきかね)る体(てい)なれば勿々(なか/\)浅草抔(など)とは思ひも寄らぬお説話(はなし)なり然し念の為当人を糺すべしとて子息(むすこ)を呼寄せ此趣旨(このおもふき)を申聞(きけ)れば決して然様(さやう)の覚えはなしとの答故右の事情(ことがら)を挨拶しければ手代は早々(そう/\)立帰り母親へ斯(かく)と告るにより母は愈々不審に思ひ供せし下婢(をんな)に再び問(とへ)ど全く前の話に相違なしとの事に付其翌日は供の者にも何か密々(みつ/\)言含め娘に知らせず母親は番頭一人を召連て見え隠れに跡をつけて行とも知らぬ彼娘(かのむすめ)お染は雷神門(かみなりもん)へ至る頃(ころ)例(いつも)の息子と出逢(いであふ)て連立行(つれだちゆき)しは紛ふ方(かた)なき隣家(となり)の美之助なれば母は猶も何処(いづく)へ行かと跡を慕ひ行(ゆき)しに粂の祠へ参詣なし夫より奥山なる彼の菜飯茶屋へ立入ける弥々(いよ/\)怪しく思ひしなれど其日は確乎(しか)と見届し故家に帰りて只一人熟々(つく/゛\)と思ひ廻すに那然確実(あれほどたしか)の證拠あるを憎(につ)くき隣家(となり)の挨拶かな最(も)一度明日付行(つけゆき)て二人共に捕来(きた)り親子三人(みたり)の面(つら)の皮を剥て腹癒(はらいせ)成(なす)べしと余に腹の立しまゝ我娘の恥辱(はぢ)と成にも心付ず足ずも成(なし)て翌日を待兼居たるも女気(をんなぎ)の最愚(いとおろか)なる事共なり

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ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)

2017年8月10日木曜日

粂の平内 (豪傑小説) 百十三 百十四

粂の平内  雨柳子(三宅青軒) 敬文館 1905 明38.3

(百十三)
 庭には荒菰(あらごも)が敷て、其菰の上へ赤城無敵齋(あかぎむてきさい)から千田軍四郎 狼の助五郎と次第を立てゝ、縛(しば)つたまゝで坐らせ、側に水を湛へた手桶を置き、夫れに柄杓が添へてある。
 武藤金吾と本間廉蔵との二少年は、平内の斬り方を見ようと言ふので付て居る。春の夜ながら月は物凄く三人の顔を照す。いかにも忌(いや)な光景だ。
 無敵齋は悔しさうに平内(へいない)を睨むで、「どうせ死ぬる命だから、何となつても構はないけれど、併(しか)し武士たるものを縛り首にするとは酷い。死でも此怨みは覚えて居る」と怒ると、狼の助五郎は歯軋りして、「わツしもさうだ、コウ、平内、人に怨みがあるものか無いものか、よく覚えて居やアがれ」と罵る。平内は打笑ふて、「其方共は何処まで未練な奴ぢや、此後に及び尚世迷言を申すとは笑止の至り、早く念仏でも唱へて往生するが好いぞ。此平内は其方等に怨まれたとて、何の何の」と言ひながら、予(かね)て嫉刃(ねたば)を合(あは)して置た無銘の利刃(わざもの)すらりと抜て、先づ助五郎の後へ廻る。
 助五郎「ウム、おれから斬るのだな、好し、人の執念はどんなものか、其證拠に、向ふの庭石へ咬(かぢ)り着て見せる」と声を顫(ふる)はせる。千田軍四郎は之れを聞て、「助五郎、其方(そち)が庭石へ咬り着くなら、おれはあの桜の樹へ咬り着てやる」と言ふ。無敵齋「おれは振り返つて、此平内の喉笛へ咬り着かねば置ぬ」と叫ぶを、強気(ごうき)の平内何の頓着も無く「詰らぬ世迷言を言はずに覚悟致せ」と言ふ其声もまだ終らぬに、ぱつと濡手拭を振るやうな音がしたかと思へば、助五郎の首は胴から離れて向ふへ飛ぶ。血は泉の如くに上る。
 金吾と廉蔵(れんざう)とが「アツ」と叫ぶに気が付て見ると、これは不思議、助五郎の首は、今言つた通りに飛で往(い)つて、庭石の角へ緊(しつ)かりと咬り着た。さすがの平内も大いに驚いて覚えず立竦(たちすく)みになつて、金吾が其血刀(ちがたな)へ水をかけて居るのも知らなかつた。
 軍四郎「助五郎、出来(でか)した、今度はおれの番だな」と言ふところを、又ぱつと斬ると、首は勢ひよく飛で、桜の樹へがツしり咬り着く。金吾は吃驚(びつくり)して、「先生、御用心遊ばしませ」と小声で言ふ。廉蔵は声を顫(ふる)はして、「お兄い様、無敵齋の首はどんな事を致すか分りません」と怖れる。
 「ウム、ウム」と点頭(うなづき)ながら、平内は血を洗ふた刀を提(ひつさ)げて無敵齋の後ろへ廻る。無敵齋は、「助五郎も軍四郎もよくした。平内、覚悟を仕(し)ろ」と捻向(ねぢむ)く首をぴたりと刀の刃棟(はむね)で撃(うつ)て、其気をぬいて、今度はばつと斬離す。之れに欺(だま)されて、無敵齋の首は前へ落たが、併し此方(こち)らを向て、二度(たび)三度瞬きして、いかにも無念と言つたやうに、凄い眼をして睨むで居る。
 廉蔵「怖ろしい執念で御坐りますな」、 金吾「何とした未練な奴で御坐りませう」と言ひながら、平内の刀へ水をかける。平内は其刀の血(のり)を拭うて、「イヤ、天晴の斬味、無銘ながら確かに名作ぢや」と鞘へ納めて、偖て軍四郎と助五郎の首を査(あらた)めて見たが、これも眼を見張たまゝで、樹と石と咬り着て、丸で生きて居るやうである。平内が刀の棟撃(みねうち)で一度欺して其の気をぬか無(なか)つたなら、無敵齋の首は捻向て平内へ飛着たであらう。平内の頓智も豪(えら)いが、併し人間の執念と言ふものも怖ろしい。
 下僕(しもべ)を呼で首と死骸の始末をさせ、強気(ごうき)の平内一向平気で其夜(よ)は寝た。ところで色々の夢を見る。幾人幾十人を大根や菜ツ葉を切るやうにした是までとは違(ちが)うて、何やら怪しい夢に魘(おそ)はるゝ、我ながら不思議と我を疑ふて、度々起てお里に訝かられたとは妙である。

(百十四)
 何やら合点は往ぬが、無敵齋 軍四郎 助五郎の執念深いのに忌(いや)な気持のして、平内は是までに無い菩提心を起し、此翌日三人の死骸を、密かに長兵衛の寺の源空寺へ葬つた。
 其夕暮に托鉢僧が門に立て、鉦を敲(たゝ)いて念仏を唱へて居るに、平内は之れを呼(よば)しめ、三人の為めに供養をさせようとすると、此僧は辞退して、「わたくしは真の乞食坊主でお経などは存知じませず、迚(とて)もこなた方のやうな御大家のお座敷へ上れるものでは御座りませぬ。賤しい汚れた身で恐れ入りまする」と言ふ。妙な坊主と、平内は好奇心から出て見ると、年頃四十ばかりの実の物凄いやうな大男で、筋骨逞ましく眼の玉据つて、ひと目で天晴な武術者と言ふことが分る。
 仔細あるらしい坊主と、平内は強て呼入れ、経文読誦は兎も角斎(とき)でも振舞ふからと言ふので座敷へ請(しやう)じて、「某は当家の主人(あるじ)平内であるが、見受けるところ御坊は本(もと)武士と察せらるゝ、いかなる訳のあつて、斯く出家せられたか」と尋ねると、「天下に誰れ知らぬもの無い平内様の御眼力恐れ入て御座りまする、いかにもわたくしは武士の端くれ、剣術槍術なども少々は学びましたが、イヤ、血気に任せて余計な罪を作つた祟りで、種々様々の禍に罹り、一念発起の果が斯(こ)んな姿、鬼の念仏とはわたくしの事で御座りませう」と言ふ不思議さ、平内は愈ゝ怪しく思ふて、「はて、妙な事を承はる、お差支へ無くば其発起の次第をお話し下されたい、某も此頃些(ち)と考へることが御座るから」と、やがて斎(とき)を進て燈火(あかり)をつけて、又余儀もなく問ふた。
 平内の真面目な問ひに動かされたか、坊主は珠数を爪繰(つまぐ)りながら、「平内様ともあらう御方(おんかた)からのお尋ねとは恐れ入た事で御座りまする、わたくしの懺悔お聞下され何を秘(かく)しませう、わたくしは肥後熊本の士(さむらひ)で、上月(かうづき)進十郎と申すもの、幼年から好む武術の為め、随分多くの人を悩まし、自分の伎倆(うで)の他人に勝るを鼻にかけて、高慢我慢の果が、喧嘩口論(けんくわこうろん)決闘(はたしあひ)、人を殺すことの面白くなり、自ら請(こ)ふて、人の忌(いや)がる劊手(きりて)を劊受(ひきう)け、打首になる科人は皆わたくしが斬りました、ハイ、二十歳(さい)の頃から昨年の秋の四十歳まで、二十年の長の年月千人に余る首を斬た報いは、怖ろしや妻に祟り子に祟り思ひも寄らぬ非業の最期を遂げまして、わたくしさへも折にふれては怨霊に苦しめられる気味の悪さ、つく/゛\身の罪が怖ろしくなりましたので、暇(いとま)を乞ふて俄かの出家、斯(か)うして乞食坊主になり下り、諸国を行脚して罪障消滅を祈るので御座りまする」と言つて、後は念仏を唱へて居る。
 「ウム」と平内も胸に答へて、「成程御殊勝なことで御座るが、併(しか)し御坊罪あるものゝ其罪に依て斬殺さるゝは当り前、夫れで、人を怨むで其人に祟るなどゝ、実に理屈の分らぬ次第」と言ふを、進十郎坊は、「其御不審、一応は御尤もに伺ひまする、わたくしも若気の血気から左様に存じてこそ二十年も面白がつて劊手(きりて)を致したので御座りまするが、打首にせらるゝ程の悪人、違拗(ねぢけ)た心は息の絶える最期まで改まらず、自分の罪を悟るどころか只もう役人を怨み劊手(きりて)を怨み、此劊手さへ無ければ自分は斬られずに済むものゝやうに思ひ僻むで、斬らるゝ刹那の一念凝(こつ)て、こゝに不思議な作用(はたらき)をなすものと存じられまする。論より證拠、人を多く殺したものに其終りを善くしたものは御座りませぬ」としみ/゛\言ふ。

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ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)

 

2017年8月9日水曜日

新撰 皿屋鋪弁疑録 巻之弐 青山主膳更屋敷拝領之事 並同人盗賊改御役之節粂平内兵衛を召抱御事

見覧を希のみ
 宝暦八
  戊寅年陽春 武江隠士 
          馬文耕選

新撰 皿屋鋪弁疑録

巻之弐
 青山主膳更屋敷拝領之事
 並同人盗賊改御役之節粂平内兵衛を召抱御事

然程に番町天樹院殿御悪行日ゝ夜ゝに止事なく
件の竹尾といへる女も終に命をと[り][て]花井か死體を
捨し井戸のうちへいつしよに打込捨給ふ其後寛永の初
天樹院殿薨去なされしかは右御守殿をこぼち玉ひて空
地の更屋敷となる其屋敷に件の井戸これあるに小雨降
夜半になり給へは右の井戸より青く光る日燃立消てはもへ
あかる事度/\なり往来の人是を見て大きにおとろき
後には誰しらぬ者もなく妖怪屋敷といひ傳へ天樹院殿
29
御守殿跡化粧のもの住居なりた[り]て牛込の内はん町の
結構なる屋舗なりといへとも誰有て拝領せんと申人も
なかりし[が]段ゝ江戸明地等も少くなりけるに付武家の拝領
屋敷これなきにつきて御旗本衆の内にて三人分に
右屋敷下さ[れ]けれとも彼井戸の有し近所の何れも
頂戴する人なかりけり後秊井戸も潰れて家居
たち込しにしたかひて化粧のさたも遠さかりし[所]
その頃道三河岸を持て居られし御旗本衆屋敷
御用に付召上られ松平肥後守殿下さ[れ]しに付道三
河岸に居られ候御旗本衆へ代地所/\にて下され
其御旗本衆の内に御先手[組]勤められて千五百石

青山主膳といへる人有けるに件の御守殿跡の古井の
埋し近所七百坪程くだされける青山爰を拝領して頓て
普請にとりかゝり[て]成就して親妻等を引具し一家
中不残引越扨又屋敷うち家中用水のため井戸を
[堀]らせけりこの井戸こそ後に菊を殺し入し井戸也
今に菊か井戸と云傳ふ井は是なり誠に如何成因縁にや
[以]前屋敷の有し天樹院殿にてさら屋しきの名をこふ
むり竹尾と花井をころし井戸へ埋め後年
此屋敷之主又も井戸へ入て末世に皿屋敷と名を上し
こそ不思議の因果のなす所なるべし斯て青山主膳は
其頃盗賊改め奉行をこふむり此青山と云人至て
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不仁不義の人にて大酒を好て下をいたはる心なく悪しく
奉行改人かりそめにも不仁の行ひある時は町人百姓なげき
いくばくぞや誠に公義へ対して不忠至極といふへし
されは青山主膳は組中与力同心に急度申付けるは御
奉公随一の事なれは罪人多く召し捕候へと呉ゝ申付る
なり凡天下には罪人無きを以て仁政の所とすべきに
青山殿か申付如何成天盲千万なる事そかし夫ゆへに
組子の人ゝは夜廻り等いたし[明]ては壱人なり共罪人
をとらへ行時は青山殿殊之外機嫌よ[く]酒をのませ我も
楽しみまた壱人もとらへずに縄付をも連ゆかざる
けれは以之外機嫌あしく盗賊火付の多く

有べきに各/\にふ精故とらへ来らず大方夜回りはせず
して宵より休みめされつらん抔と呵りし故組呼は頭の
機嫌にいらんとて後には咎なき者もあやしきものとて
無態に縄かけつれゆくは殊の外悦ひ捕らへそこなひは
少しもくるしからすとの上意をもつて相勤る所
なればとて咎なき者を多く牢内へ入置其者をいろ/\と
せめたゝき是を肴として大酒を好みける也扨其後
浪人ものに久米平内兵衛と云者有今浅草に石像
にして久米平内兵衛像有この者は剣術取手上手
にて日本廻国武者修行せし手業の有もの也
とて左様の者こそ召抱へ置あるへしとて彼平内
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兵衛を召しかゝへて用人格にてさし置けるこの平内は
腕骨達者にて力量勝れ太刀打の手内勝れたれば
御仕置の罪人打首のもの手前好み願ひて切申度由
奉て申ける故に青山大に感し誠に予か家来程有[て停]
勇気の願ひ尤千万也某新身をこのめば其こゝ
ろみの為にも成とて重宝成望の通り以来は死罪の者の
太刀取にせんとて重ねて公義御仕置人の人切いたし役に
この久米平内兵衛を致されせり是は死罪人斬罪人を切る
は非人の役なりしに青山主膳のせつ初て人切といふ
者出来て当御代まて段/\其役これ有近世山田
浅右衛門の役にて名も高かりしそかし根元久米

平内兵衛也青山殿御役之内に平内兵衛は千人塚弐度[建]たり[と]
云千人塚は仕置人の首千人切て其印の塚を供養するとなり
夫を弐度建て其後も数人を切たると也其頃は武家末剛
卒にて大小の神祇組とて男達流行せし頃にて平内兵衛も
大小の神祇組の中に列して辻切抔も夥敷(オビタゝシク)人を殺す
事を何ともおもはぬ不敵ものなり
 近来山田浅右衛門多くの人をきりて千人塚を麻布善福寺へ
 建たり今の世の人の見る所明ら[け]し今は古人也この
 山田浅右衛門も死にきはりんじうの節山田か枕もとへ多くの
 首あらわれ出しと云何程公儀の役なりと云共むくひ
 なきにしもあらず
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此平内兵衛或時大勢の死罪人有し時牢屋にて打首する時罪
人共居并て申は我今首をきらるゝに向ふの草へ喰付て[み]せんと
訇り有頓て平内切しに案の如く草へ食付て無念の程をあらはす
今壱人の云く我は向ふの大石へ食付んと云果して切に左の如くなす
今壱人は恐しくも切らは人切の粂殿の顔へ喰付んと云平内も
気味悪く此者一念にて如何にも喰付べし然れ共其一云に恐れ
止されもせず人ゝのみる所も有て平内は思案して頓て罪人に向ひ己れ
今こそさいごなれかくごせよと申けれは如何にも心得たり汝が
顔へ喰付んと一念こらせし所を出しぬいて刀のむねにて
壱ツ打ければ件の罪人是はとふりむく所をとたんの
拍子に向ふ気をぬひて切ける由へ何の苦もなく首打

落しけり此段平内が工夫の第一なりとかやケ様にいたさずば此者一念
にて顔へ喰付へくを平内か気てん働其道のかしこき事不思義
なりと世上にて沙汰しけると也主人主膳是を聞ていよ/\粂を
寵愛しけると也平内一生の悪事おびたたしく終に病死して
彼か一子の夢にひたとみへて我一生の悪事故未来の呵嘖
ひまもなく然て某か業のめつするよふに我を人立多所に其
罪をさらし生る折からの姿を石像に刻みて万億の人往来に
さらし是然らは罪もめつし未来の為にもならんと度/\
夢中に来りし故其倅これを曽みて石像をきざませ人立
の場所なれはとて浅草観音境内に是を立[ゝ]置わざ/\ぬれ
ぼとけの如く露霜にうたせて未来の罪を免とせしに
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後には何者か是を尊敬して根元の子細弁ずして今は呉服の
茶屋とも此佛あらたなりとて大かた何にても成就するとて
信仰の余り祠を建安置しけり誠におかしき人心哉久米が
倅も夢亡像をまことゝして親の悪名を末世に知らせんと
如何にするは子は親のためにかくす直き事其中に
ありといふ聖人の教語をしらざるふ孝とみへたり
其父不義なればその子暦然の道理なるへし
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早稲田大学図書館古典籍総合データベース

ラフカディオ・ハーン『怪談』 Diplomacy(駆け引き)』の原話について
(怪談皿屋敷実録本 粂の平内兵衛と山田浅右衛門の逸話)