2014年6月20日金曜日

黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (5)

今や有岡城は、信長が計画せし長陣の戦略に依り、城中の矢玉兵糧も、全く欠乏したれば、村重自ら吉川元春・小早川隆景に面会して、救援を乞はんと欲し、九月二日の夜、城内より忍び出でゝ、備中に赴き、元春・隆景に籠城の困難を訴へたれども、此の時・既に浮田直家は、織田氏に降参し、沿道・悉く閉塞して、援軍を送るべき手段なければ、村重は事・志と遠ひ、空しく有岡城に帰りたり、其の後・瀧川一益、窃かに使者を有岡城に遣はし、利を以て城兵を誘ひたれば、中西新八郎等忽ち変心して、十月十六日夜陰に乗じ、火を城中に放ちたり、此の火災は、天の官兵衛を助くる福音なれども、如何せん官兵衛は、手桎・足桎に拘束せられて、獄舎を出づること能はず、又警固の獄卒等は、此の躁ぎに逃げ失せて、救助を乞ふべき人影もなければ、官兵衛は只眼を閉ぢ首を低れて、生死を天運に任せたり、

偶々栗山善助、城内の猛火を望み見て、主君の安否を憂ひ、予ねて知りたる、忍び口より馳せ入りて、獄舎を窺ひ見るに、其の辺りに人影もなければ、官兵衛殿々々々々と、大音にて疾呼したるに、獄内より応と答ふる、官兵衛の声を聞くや否や、善助は斧を以て、獄舎の錠を打放して、官兵衛を引立てたり、然るに官兵衛は、久しく居すくみし上に、膝に瘡(かさ)生じ、片足屈みて、容易に起つこと能はざれば、如何はせんと躊躇する折柄、銀屋新七馳せ来りたれば、両人力を合せ、官兵衛を背負ひ、辛うじて寄手の陣まで、舁き行きたり(黒田旧記)、嗚呼官兵衛は、此の危機一髪の間、九死に一生を得たり

回顧すれば、官兵衛は去年十月下旬、村重の為めに獄舎に投ぜられてより、玆に至りて殆んど一ヶ年なりき、今・官兵衛が有岡城の獄舎より、信長の本営に来りたる情況に付き、魔釈記は記して曰く
「此度信長公の御前へ、戸板に乗せ連行き、大に御喜悦[之有]、泪を流させ給ふ、官兵衛・髪長く女の如く、衣類ちぎれ虱わき、中々目もあてられぬ体の由」
とあるに依れば、如何に豪胆なる信長も、官兵衛の惨状を見て、左右の侍臣を顧み、「我再び官兵衛に対する顔色なし」と言ひ了りて、涕泣したり

然るに有岡の城下は、兵火の為に、悉く消失して、休息すべき家屋なければ、栗山等は官兵衛を、近村の民家に連れ行き、寄手(よせて)の軍中に、官兵衛の知人あるを頼みて、衣食を乞ひ、先づ飢渇を凌ぎ、衣服を更めしめたる後、駕籠を命じて、有馬に赴きたり、而して官兵衛は、池の坊左橘右衛門の家に寄寓して、日々温泉に入浴したれば、其の病躯も稍々平復したるに依り、姫路に帰らんとせしが、沿道は悉く荒木村重の領分にして、通行甚だ危険なれば、左橘右衛門の厚意に依り、有馬の人民に擁護せられて、間道より姫路に帰りたり、官兵衛が姫路城内に帰着するや、職隆及び家族を始め、家臣の喜びは、殆ど死人の蘇生したるに再会するが如く、感喜胸に迫りて、一言だも発すること能はず、只両眼に涙を浮べて、互の無事を祝するのみ

夫れより官兵衛は、秀吉の陣営に赴きたるに、秀吉は思はず進み寄りて、官兵衛の手を取り、己れの顔に当て、前後も知らず涕泣したり、魔釈記は、其時の情況を記して曰く
筑前守秀吉・孝高に逢ひ、其手をとり顔にあて、涙をたれて、先づ今生の対面こそ悦しけれ、抑も今度命を捨て、敵城に赴かれし忠志、世に有難し、我れ此の恩をいかにして報ずべきと、前後も覚えず泣給へば、孝高も、しばし涙せきあへざりき
と、嗚呼秀吉が此の一言は、如何に官兵衛をして感激せしめたるか、恐らく有岡城の幽囚、一ヶ年の惨苦を償ふに余りありしならん、然れども「頼むまじきは人心なり」と、古哲も人を戒むるが如く、秀吉が当時の心情は、永く其の胸中に存在したる歟、蓋し官兵衛が勘解由となり、又如水となるの日、事実は之を証明せん

職隆・官兵衛の父子が、逆境に屹立して、艱苦を忍び、誠忠を竭したる効果は、終に空しからず、今や父子二人は、一堂に家臣と相会して、和気靄々の中に、家運の再開を祝賀したり、然るに官兵衛が、有岡城の獄舎にて、犯されたる瘴癘毒は、有馬の湯治に依り、全治したれども、一脚は之が為めに跛と為り、終生不具の身となりたり、然れども彼の意気は旧に倍し、益々豪壮となり、再び起つて秀吉の帷幄に参列す、官兵衛時に齢・正さに三十四歳なり

十二月、官兵衛、小寺の姓を改めて、本姓・黒田に復す、改姓の理由に付き、黒田勲功録は記して曰く
是れは秀吉より、小寺政職表裏を構へ、叛逆の内謀有りし、逆進の者の名字なれば、改むべしと有りしに依る也



舁き(か)き、
更め(あらた)め
稍々(やや)
勘解由(かげゆ)
竭したる(つく)したる
瘴癘(しょうれい) 風土病、熱病など。


黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916


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