2014年6月18日水曜日

黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (2)


於是政職窃かに以為へらく、我れ今自ら手を下して、官兵衛を殺さば、職隆必らず吾れに敵対せん、故に官兵衛を使節として、有岡城に赴かしめ、村重の手を借りて、彼を除くに如かずと、政職乃ち官兵衛を招き、欺きて曰く、汝が諫言は我克く之を了解せり、然れども我今・信長に背き、輝元に属せんとするは、全く村重の勧誘に従ひたるものなれば、若し村重にして心を俊め、信長に復帰せば、我も亦織田氏に従はん、故に汝先づ有岡城に赴き、村重を説きて、其の志を翻へさしめよと、官兵衛答へて曰く、君命を奉じ、正邪得失を述べて、村重を説かば、必らず反省するならん、臣謹んで命を奉ぜんと、政職乃ち官兵衛を有岡城に遣はし、且つ派遣せしめたる陰謀を村重に密告し、彼をして官兵衛を殺さしめんとす

官兵衛姫路に赴きて、職隆に有岡行の使命を告げたれば、職隆も亦官兵衛に伝言して、村重の改悛を勧誘す、此の時秀吉は三木の陣中にあり、官兵衛乃ち有岡に赴くの途次、三木に立寄り、秀吉に謁して、村重勧誘の使命を告ぐ、秀吉曰く、我曩に村重の心を翻へさしめんと力めたれども、村重狐疑して之に応ぜず、「願くば貴殿の弁舌にて、今一度村重を説かれよ」(魔釈記)と、官兵衛乃ち伊丹に赴く、村重は既に政職の密旨を受けたる事なれば、直ちに官兵衛を城中に招き、屈強の力士数人を伏せ置き、官兵衛を生捕りて、城内の獄舎に投ず、是れ十月下旬の事なりき(故郷物語・黒田家譜)

夫れ世路の嶮は、山にあらず、水にあらず、唯だ人情反覆の間にありと、さしも小寺政職が、職隆父子を信頼せし当初の精神は、衆口金を鑠かすの諺に洩れず、いつしか変じて官兵衛を忌み、又職隆をも疑ふに至りたり、殊に秀吉の姫路に下向せし以来は、政職主従が官兵衛を忌憚すること甚しく、機会あらば、直ちに官兵衛を除かんと待ち居たりしが、政職今は村重と共に、毛利氏に属したれば、愈よ官兵衛を除かんと決心せり、然れども流石に自ら刄を官兵衛に加ふることを憚り、陽に彼を信用せし如く見せ掛けて、陰に彼れを死地に陥れたり、蓋し官兵衛の才智、豈に敢て此の陰謀を知らざるの理あらんや、然るに官兵衛の一諾、直ちに有岡城に赴きたるは、一は政職に対する忠義と一つは秀吉の懇請に依りたる為めなり

諺に云ふ、呑舟の魚も、碣(あさせ)にして水を失へば、螻蟻の為めに辱めらると、官兵衛・如何に智あり勇ありと雖も、身は獄中に投ぜられて、手桎(てかせ)・足桎(あしかせ)を入れらたれば、如何ともすること能はず、只大節を持して敢て屈せず、神色自若として、説くに正邪の道理を以てしたれば、竟に殺害すること能はざりき、嗚呼官兵衛が凛烈たる
気節、千載の上(か)み、遥に蘇武を凌駕せんとす

官兵衛が有岡城中に於て、奇禍に罹れる悲報、一たび姫路に伝はるや、姫路城中は、さながら鼎の沸くが如く、上下挙て激昂せり、進んで官兵衛を救はんか、将た退ひて松寿を助けんか、一族郎党は職隆の心中を察し、其の進退を決すること能はされば、職隆に見えて曰く、官兵衛殿・村重の毒手に罹り、不慮の危難に陥られたること、実に切歯痛憤に堪へざるなり、然れども、官兵衛殿を救はんとせば、村重に与みして、松寿殿を捨てざるを得ず、又松寿殿を助けんとせば、信長公に従うて、官兵衛殿を失はざるべからず、彼に利なれば此に害あり、是れ臣等が痛心する所にして、一に公の裁断を仰ぐの外なしと、

職隆従容として曰く、汝等が問ふ所は、只一言にして決すべし、即ち官兵衛を捨つるのみ、夫れ官兵衛は、主君の命を奉じて、有岡城に赴き、村重不法にも之を幽囚せしものなれば、曲・全く彼にあり、官兵衛若し不幸にして、村重の為めに殺されん乎、是れ君命に殉する武士の本分なり、然れども松寿は、曩に信長公に盟ひ、二心なき證拠として、人質に出したるものなれば、今・官兵衛を助けんが為め、義に背き信を破りて、信長公を欺くこと能はず、然るに今や御着と姫路とは、不幸にして確執となりたれば、従来小寺家の附人として、当城に在住する諸士は、御着に帰りて、政職に忠勤を尽されよ、又我が家臣と雖も、去就は、一に其の選む所に任かす、我は只一死を以て素志を貫徹せんのみ(黒田家譜・喜多村家伝)と、辞色共に壮烈を極めたれば、列座の面々、職隆の義心の堅さに感激し、皆な「誰か此の大事を見捨申べき、仮令御着より攻来るとも、我々かくて候へば、只一番に追散すべし」([喜多村家伝] 本分では、多喜村家伝とある)と、契約したり、夫より喜多村甚左衛門の発議に依り、熊野牛王の誓紙に、二心なき誓文を認め、署名書判して、職隆に上れり



於是(ここにおいて)
以為へらく(おも)へらく
悛め(あらた)め
衆口金を鑠かす(しゅうこきんをとかす)  多くの人の言う言葉,特にそしりや讒言(ざんげん)は正しいことをも滅ぼす。
螻蟻(ろうぎ) 螻(ケラ)
竟に(つい)に
将た(は)た
辞色(じしょく) 言葉つきと顔色



黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916



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