2014年6月20日金曜日

はじめに

ブログ説話の力は説話に関するエピソードを紹介したり、現代の物語にも登場するモチーフを取り上げて、古典との関連を考察したりするブログです。

また話題になっているお話の考察なんかもどんどんしていきたいと思いますので、解説コラムを読むようなノリで訪れてほしいなあと思っています(^^)/

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管理人・共同執筆者 水音凛香

黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (5)

今や有岡城は、信長が計画せし長陣の戦略に依り、城中の矢玉兵糧も、全く欠乏したれば、村重自ら吉川元春・小早川隆景に面会して、救援を乞はんと欲し、九月二日の夜、城内より忍び出でゝ、備中に赴き、元春・隆景に籠城の困難を訴へたれども、此の時・既に浮田直家は、織田氏に降参し、沿道・悉く閉塞して、援軍を送るべき手段なければ、村重は事・志と遠ひ、空しく有岡城に帰りたり、其の後・瀧川一益、窃かに使者を有岡城に遣はし、利を以て城兵を誘ひたれば、中西新八郎等忽ち変心して、十月十六日夜陰に乗じ、火を城中に放ちたり、此の火災は、天の官兵衛を助くる福音なれども、如何せん官兵衛は、手桎・足桎に拘束せられて、獄舎を出づること能はず、又警固の獄卒等は、此の躁ぎに逃げ失せて、救助を乞ふべき人影もなければ、官兵衛は只眼を閉ぢ首を低れて、生死を天運に任せたり、

偶々栗山善助、城内の猛火を望み見て、主君の安否を憂ひ、予ねて知りたる、忍び口より馳せ入りて、獄舎を窺ひ見るに、其の辺りに人影もなければ、官兵衛殿々々々々と、大音にて疾呼したるに、獄内より応と答ふる、官兵衛の声を聞くや否や、善助は斧を以て、獄舎の錠を打放して、官兵衛を引立てたり、然るに官兵衛は、久しく居すくみし上に、膝に瘡(かさ)生じ、片足屈みて、容易に起つこと能はざれば、如何はせんと躊躇する折柄、銀屋新七馳せ来りたれば、両人力を合せ、官兵衛を背負ひ、辛うじて寄手の陣まで、舁き行きたり(黒田旧記)、嗚呼官兵衛は、此の危機一髪の間、九死に一生を得たり

回顧すれば、官兵衛は去年十月下旬、村重の為めに獄舎に投ぜられてより、玆に至りて殆んど一ヶ年なりき、今・官兵衛が有岡城の獄舎より、信長の本営に来りたる情況に付き、魔釈記は記して曰く
「此度信長公の御前へ、戸板に乗せ連行き、大に御喜悦[之有]、泪を流させ給ふ、官兵衛・髪長く女の如く、衣類ちぎれ虱わき、中々目もあてられぬ体の由」
とあるに依れば、如何に豪胆なる信長も、官兵衛の惨状を見て、左右の侍臣を顧み、「我再び官兵衛に対する顔色なし」と言ひ了りて、涕泣したり

然るに有岡の城下は、兵火の為に、悉く消失して、休息すべき家屋なければ、栗山等は官兵衛を、近村の民家に連れ行き、寄手(よせて)の軍中に、官兵衛の知人あるを頼みて、衣食を乞ひ、先づ飢渇を凌ぎ、衣服を更めしめたる後、駕籠を命じて、有馬に赴きたり、而して官兵衛は、池の坊左橘右衛門の家に寄寓して、日々温泉に入浴したれば、其の病躯も稍々平復したるに依り、姫路に帰らんとせしが、沿道は悉く荒木村重の領分にして、通行甚だ危険なれば、左橘右衛門の厚意に依り、有馬の人民に擁護せられて、間道より姫路に帰りたり、官兵衛が姫路城内に帰着するや、職隆及び家族を始め、家臣の喜びは、殆ど死人の蘇生したるに再会するが如く、感喜胸に迫りて、一言だも発すること能はず、只両眼に涙を浮べて、互の無事を祝するのみ

夫れより官兵衛は、秀吉の陣営に赴きたるに、秀吉は思はず進み寄りて、官兵衛の手を取り、己れの顔に当て、前後も知らず涕泣したり、魔釈記は、其時の情況を記して曰く
筑前守秀吉・孝高に逢ひ、其手をとり顔にあて、涙をたれて、先づ今生の対面こそ悦しけれ、抑も今度命を捨て、敵城に赴かれし忠志、世に有難し、我れ此の恩をいかにして報ずべきと、前後も覚えず泣給へば、孝高も、しばし涙せきあへざりき
と、嗚呼秀吉が此の一言は、如何に官兵衛をして感激せしめたるか、恐らく有岡城の幽囚、一ヶ年の惨苦を償ふに余りありしならん、然れども「頼むまじきは人心なり」と、古哲も人を戒むるが如く、秀吉が当時の心情は、永く其の胸中に存在したる歟、蓋し官兵衛が勘解由となり、又如水となるの日、事実は之を証明せん

職隆・官兵衛の父子が、逆境に屹立して、艱苦を忍び、誠忠を竭したる効果は、終に空しからず、今や父子二人は、一堂に家臣と相会して、和気靄々の中に、家運の再開を祝賀したり、然るに官兵衛が、有岡城の獄舎にて、犯されたる瘴癘毒は、有馬の湯治に依り、全治したれども、一脚は之が為めに跛と為り、終生不具の身となりたり、然れども彼の意気は旧に倍し、益々豪壮となり、再び起つて秀吉の帷幄に参列す、官兵衛時に齢・正さに三十四歳なり

十二月、官兵衛、小寺の姓を改めて、本姓・黒田に復す、改姓の理由に付き、黒田勲功録は記して曰く
是れは秀吉より、小寺政職表裏を構へ、叛逆の内謀有りし、逆進の者の名字なれば、改むべしと有りしに依る也



舁き(か)き、
更め(あらた)め
稍々(やや)
勘解由(かげゆ)
竭したる(つく)したる
瘴癘(しょうれい) 風土病、熱病など。


黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916


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黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (4)

然るに職隆父子の誠忠は、唯皇天后土の知るのみにして、信長は却て官兵衛を疑ひ、彼が有岡城より還らざるは、全く荒木村重に同心せしものと即断して、憤怒の余り、人質・松壽を殺さんとす、松壽は秀吉播州下向の後、竹中半兵衛が監視の下に、長濱の城内に在りたれば、信長乃ち半兵衛を招き、「汝速に長濱に赴き、叛逆人官兵衛の人質・松壽を殺し来れ」と命じたり、

然れども半兵衛は、克く官兵衛の本心を識るものなれば、信長に説きて曰く、官兵衛の還らざるは、必らず深き仔細ぞあらん、官兵衛は元来忠義の志深く、且つ才智非凡なる者なれば、強き味方を捨てゝ、弱き敵に与みするものならんや、然るに今其の実否をも究めず、軽々しく人質を殺し給はゞ、是れ官兵衛父子を駆つて、敵に投ぜしむるものなり、彼等の一族、若し恨みを含みて、敵軍に投ぜば、中国征伐も容易に行はれまじと、理を尽して弁疏したれども、信長の憤怒激しく、更に聴き入れざれば、半兵衛も今は力及ばず、已むなく命を奉じて、長濱に赴く、嗚呼松壽の生命は、危機一髪、宛も風前の燈に似たり、

然るに半兵衛は慮る所あり、窃かに松壽を拉し去て、己れの領地・美濃国・不破郡に至り、岩手の奥なる菩提の居城に匿し置きたり、而して信長は勿論、世人も亦松壽は、竹中半兵衛の刃に下に、亡き人となりたるものと認めたり、此の禍福変転の消息は、父子祖孫の骨肉三人、各々参商の天を隔つるに依り、祖父なる職隆も、又父なる官兵衛も、夢にだも之を知らず、松壽独りは、俄かに美濃の山奥に拉し去らるゝを見て、其の子供心に、窃かに奇異の念を懐きたるのみ

偖信長は、松壽を殺すべしと命じたる後に、自ら軍勢を統率して、荒木村重誅伐の為め、十一月摂津に下りて、有岡城を囲む、然れども村重・死を決して、防戦したれば、容易く落城すべき模様なければ、信長乃ち長陣(ながぢん)の軍略を定めて、各所に城砦を築き、諸将に命じて、堅く之を守り、妄りに進撃すべからずと戒めて、一先づ安土に帰りたり、是れ天正六年十二月の事なりき

今・官兵衛が幽囚せられたる獄舎は、有岡城の西北の隅にありて、其の後ろには、水底深き溜池あり、又其の三方は、竹藪を以て囲まれたれば、太陽の光りを見ること能はず、土地陰鬱にして、湿気常に膚を襲ひ、さながら今生よりの地獄なりき、然るに?に官兵衛をして、一点の光明を得て、絶望せしめざらしめたるものあり、是れ何ぞや、即ち小寺の附人、母里太兵衛(後ち但馬)、栗山善助(後ち四郎右衛門・備後)及び家臣・井上九郎二郎(後ち九郎右衛門・周防)が、此の間に尽せし苦忠と、伊丹兵庫頭の党類・加藤又左衛門が、懇切なる情誼是れなり、今暫く?に其の仔細を語らん

母里太兵衛・栗山善助・井上九郎二郎の三人は、官兵衛の生死如何を探知せんが為め、商人の姿に身を窶(やつ)し、姫路より潜る/゛\有岡に赴きて、其の探索に奔走せり、栗山善助は、伊丹の銀屋(しろがねや)(金銀細工商)に、新七と云ふ知人あれば、先づ彼に其の内意を漏して相談したり、新七元来義侠心に富みたる者なれば、善助を我が家に匿し置きて、陰に有岡城内の状況を窺ひしに、官兵衛が幽囚せられたる獄舎の後ろに、溜池あることを見出したり、然れども昼間は警戒厳にして、容易に近くこと能はざれば、暗夜に乗じ善助を伴ひ、窃かに城内に忍び込み、善助をして溜池を泳ぎ渡りて、獄舎に近づき、官兵衛に面会して、姫路の情況より、天下の形勢に至るまで、詳かに密告することを得せしめたり、其の後・新七は番兵に賄賂を與へ、善助をして屡々官兵衛を、獄舎に訪ふことを得せしめたり、又摂津の豪族・伊丹兵庫頭の幕下に、加藤又左衛門と云ふ者ありしが、兵庫頭と共に、有岡城を守り、官兵衛の獄中に呻吟するを見て、坐ろに惻隠の心を起し、懇ろに待遇したれば、官兵衛大に其の厚誼に感じ、一日・又左衛門に向ひ
我れ他日恙なく本国に帰ることを得ば、貴方の男子を一人、我が所に遣はされよ、我れ松壽が弟の如く愛育すべし(黒田家譜)
と堅く約束したり

今や官兵衛は、栗山等の苦忠と、銀屋新七の義侠に依て、時々天下の形勢を、朧げながら聞くことを得て、天の猶ほ未だ彼れを捨てざるを喜びたれども、何れの日を以て、此の絏紲の苦痛を脱し、再び天日を拝するを得べきやに思ひ到らば、暗涙の為めに衣を濡すを知らざりしならん

明くれば天正七年三月、信長再び摂津に出馬し、一方に於ては、有岡城の周囲に城砦を増築し、城内の糧食尽くるを待ち、大挙して之を攻め落さんと計画し、又一方に於ては、信忠に命じて播磨に下り、三木城の周囲に、六ケ所の城砦を築きて、遠攻めの軍略を施し、又小寺政職が籠りたる御着の城下に火を放ち、民家を焼き払ひて、其の糧道を杜絶せしめたり

今や蓋世の雄図を懐きたる官兵衛は、有岡城内の獄舎に呻吟し、坐臥進退も自由ならず、陰鬱たる篁叢の下に、空しく時運の回転するを待ちつゝありしが、不思議や一日、藤の嫩蔓(わかづる)、獄舎の柵を伝ひ攀て、新芽を吹出し、頓て紫の花・先出て、官兵衛に向つて、未来の瑞祥を告ぐるに似たり(筑前古老の話)、官兵衛窃かに以為らく、是れ天の我を啓き給ふ吉兆ならん、何れ遠からず、此の獄舎を出でゝ、我が胸中に鬱結する経綸も、亦此の藤花の如く、再び世に咲き出るの期あるべしと、大に気を励し、勇を鼓して、一日三秋の懐ひを為せり

梅雨の空(そら)もいつしか過ぎて、早や已に夏とはなれり、肉痩せ骨落ちて、残り多からぬ英雄の血も、亦蚊軍の襲来に依て、吸ひ取られたれば、顔色益々憔悴せり、時は是れ六月十三日、官兵衛が、管鮑相許せる竹中半兵衛は、三木の陣中に病死す、
嗚呼死すべき官兵衛は、未だ死せずして、死すまじかるべき半兵衛は、已に死亡せり、斯くて三伏の苦熱も漸く去り、哀れ身に沁む秋も老いて、官兵衛は将さに獄窓の下に、一年を経過せんとす、而して彼れが囚はれたる有岡城の風雲は如何




参商(しんしょう) 参星はオリオン座の三つ星、商星は蠍座のアンタレス。両者は同時に天に現れる事はない。
篁叢(たかむら)
頓て(やが)て
経綸(けいりん) 国家を治める方策
管鮑(かんぽう) 互いによく理解し合っている友人。 管仲と、鮑叔牙


黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916


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2014年6月19日木曜日

黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (3)


      起請文之事

  今度官兵衛不慮に上邊御滞留、各難儀[是過不]候、然時は当城誰に御[覚悟無]御座候とも、此衆之儀は、御本丸無二に馳走[申可]候、若此旨[偽申於者、大日本国中大小神祇、八幡大菩薩愛宕山、殊に氏神御罸[蒙給可]候也、仍起請文如件
  天正六年十一月五日

母里與三兵衛
喜多村六兵衛勝吉
長田三助助次
衣笠久左衛門景
喜多村甚左衛門
藤田甚兵衛
小川與三左衛門
三原右助
宮田治兵衛
栗山善助
後藤右衛門
母里太兵衛

      御本丸

(クリックすると大きな画像が出ます)
小寺家附人の誓書



此の誓文中、「[此]度官兵衛不慮」と認めて、君臣の敬称を用ひざる所以は、母里以下十一人は、天文十四年、政職より職隆の附人として、姫路に遣はされたる、小寺家の直参(ぢきさん)なればなり、然るに其の連判者の一人、喜多村甚左衛門は、元来職隆の家臣なれば、小寺家の直参とは、其の身分も違ふにより、此の誓紙に署名することを固辞したれども、誓紙呈出の発議者なれば、連判者の勧めに従ひ、政職の附人と共に、玆に連判したるものなり、又市村吉右衛門・尾上右京亮等十二人の附人は、此の事を聞き、連判に加はらんことを申込みたれども、誓紙は既に本丸(職隆の住居)に差出したる後なれば、別に普通の奉書紙に、同一の誓文を認め、署名書判して、母里以下の十一人に示したるに依り、母里等も亦再び之に署名し、都合二十四人連判して、十一月七日附を以て、職隆に差出したり

又職隆の家臣・久野四兵衛等七人は、別に地蔵菩薩の立像を摺り出せる誓紙(竪一尺幅五寸)三枚を、竪に継ぎ合せ、其の裏面に左の誓文を認め、署名書判して職隆に上りて、二心なき旨を誓約せり


      天罸起請文之事

一  今度孝隆様、摂州[遺恨有依]、有岡に[御逗留成被候]、然処此面々[十方失候]、[如何様儀有雖]、松寿様長濱に御座候上は、[疎略及不]勿論御奉公[仕可]候事

一  唯今松寿様、御若年事候間、濃州様休夢様兵庫様、万事御心中次第に[仕可]事

一  我等式と[申乍]、御城気遣用心之儀、[疎意有可不]候事

右旨 背者

大日本国中大小神祇、八幡大菩薩春日大明神、愛宕山大地蔵権現、別而者氏神[蒙御罸罷可者也]、仍起請状如件

  天正六年十一月吉日

久野四兵衛
大野権右衛門尉
井上彌太郎
首藤太郎兵衛
吉田七郎兵衛
尾上與七
桐山孫兵衛

      御上様 
         参


此の如く小寺家の附人、及び職隆の家臣等が、誓紙を差出したる後、職隆の家臣・小河源太郎・宮内味助等十二人も、亦普通の奉書紙に、誓文を認め、署名書判し、且つ其の書判の上に血判を押して、小川與三左衛門に差出したり、今此の誓紙の文体を見るに、小河源太郎等十二人は、前二通の誓文の如く、「御本丸」、又は「御上様」と、宛名を書して、直接職隆に呈上せず、単に「馬の衆同前相定候」と記して、小寺家の附人小[河]與三左衛門宛に、差出したるを見れば、此等十二人の身分は、「馬廻り組」(黒田家家臣の格式)以下にして、直接に職隆に上書すること能はざる身分の者ならん歟、其の誓文は左の如し


      條々

一  何と成共 上様次第候
一  小美様休夢様御意背間敷
一  馬之衆同前相定候

   付り何事も[仰付被可]候

  若此内曲事候者、此衆より堅[成敗加可]候

  右之條々[相違に於]、愛宕山八幡大菩薩、摩利支天春日大明神、其外日本大小神祇
  別而氏神之[御罸蒙]、永[弓矢之道捨可]候、仍状如件

   于時天正六年霜月七日

小河源太郎住
宮内味助重
東山助次郎通
津田藤五郎識
宮崎與太郎重吉
河原理兵衛直
鳩岡與次吉次
桂藤三郎友長
山元彌助雲
倉與四郎長
本所新六通次
栗山與三郎


      小川與三左衛門殿
               参

黒田家家臣の誓書の血判
黒田公爵家所蔵
(クリックすると大きな画像が出ます)


此の三通の誓紙は、今現に黒田公爵家に保存せられたれば、余一日之を一見せしが、実に三百五十年前の昔を追想するに堪へたり、殊に最後の誓紙にある血判の如きは少しく変色したれども、血痕今尚ほ忠臣の赤誠を留め、坐ろに感慨の情を催さしむ、嗚呼此の四十三人の連判者は職隆と心を一にし力を合せ、其の忠勇義烈は千載の下、永く汗青を照らして、忠臣の亀鑑たり



仍(よって)
如件(くだんのごとし)
坐ろ(そぞ)ろ



黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916


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2014年6月18日水曜日

黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (2)


於是政職窃かに以為へらく、我れ今自ら手を下して、官兵衛を殺さば、職隆必らず吾れに敵対せん、故に官兵衛を使節として、有岡城に赴かしめ、村重の手を借りて、彼を除くに如かずと、政職乃ち官兵衛を招き、欺きて曰く、汝が諫言は我克く之を了解せり、然れども我今・信長に背き、輝元に属せんとするは、全く村重の勧誘に従ひたるものなれば、若し村重にして心を俊め、信長に復帰せば、我も亦織田氏に従はん、故に汝先づ有岡城に赴き、村重を説きて、其の志を翻へさしめよと、官兵衛答へて曰く、君命を奉じ、正邪得失を述べて、村重を説かば、必らず反省するならん、臣謹んで命を奉ぜんと、政職乃ち官兵衛を有岡城に遣はし、且つ派遣せしめたる陰謀を村重に密告し、彼をして官兵衛を殺さしめんとす

官兵衛姫路に赴きて、職隆に有岡行の使命を告げたれば、職隆も亦官兵衛に伝言して、村重の改悛を勧誘す、此の時秀吉は三木の陣中にあり、官兵衛乃ち有岡に赴くの途次、三木に立寄り、秀吉に謁して、村重勧誘の使命を告ぐ、秀吉曰く、我曩に村重の心を翻へさしめんと力めたれども、村重狐疑して之に応ぜず、「願くば貴殿の弁舌にて、今一度村重を説かれよ」(魔釈記)と、官兵衛乃ち伊丹に赴く、村重は既に政職の密旨を受けたる事なれば、直ちに官兵衛を城中に招き、屈強の力士数人を伏せ置き、官兵衛を生捕りて、城内の獄舎に投ず、是れ十月下旬の事なりき(故郷物語・黒田家譜)

夫れ世路の嶮は、山にあらず、水にあらず、唯だ人情反覆の間にありと、さしも小寺政職が、職隆父子を信頼せし当初の精神は、衆口金を鑠かすの諺に洩れず、いつしか変じて官兵衛を忌み、又職隆をも疑ふに至りたり、殊に秀吉の姫路に下向せし以来は、政職主従が官兵衛を忌憚すること甚しく、機会あらば、直ちに官兵衛を除かんと待ち居たりしが、政職今は村重と共に、毛利氏に属したれば、愈よ官兵衛を除かんと決心せり、然れども流石に自ら刄を官兵衛に加ふることを憚り、陽に彼を信用せし如く見せ掛けて、陰に彼れを死地に陥れたり、蓋し官兵衛の才智、豈に敢て此の陰謀を知らざるの理あらんや、然るに官兵衛の一諾、直ちに有岡城に赴きたるは、一は政職に対する忠義と一つは秀吉の懇請に依りたる為めなり

諺に云ふ、呑舟の魚も、碣(あさせ)にして水を失へば、螻蟻の為めに辱めらると、官兵衛・如何に智あり勇ありと雖も、身は獄中に投ぜられて、手桎(てかせ)・足桎(あしかせ)を入れらたれば、如何ともすること能はず、只大節を持して敢て屈せず、神色自若として、説くに正邪の道理を以てしたれば、竟に殺害すること能はざりき、嗚呼官兵衛が凛烈たる
気節、千載の上(か)み、遥に蘇武を凌駕せんとす

官兵衛が有岡城中に於て、奇禍に罹れる悲報、一たび姫路に伝はるや、姫路城中は、さながら鼎の沸くが如く、上下挙て激昂せり、進んで官兵衛を救はんか、将た退ひて松寿を助けんか、一族郎党は職隆の心中を察し、其の進退を決すること能はされば、職隆に見えて曰く、官兵衛殿・村重の毒手に罹り、不慮の危難に陥られたること、実に切歯痛憤に堪へざるなり、然れども、官兵衛殿を救はんとせば、村重に与みして、松寿殿を捨てざるを得ず、又松寿殿を助けんとせば、信長公に従うて、官兵衛殿を失はざるべからず、彼に利なれば此に害あり、是れ臣等が痛心する所にして、一に公の裁断を仰ぐの外なしと、

職隆従容として曰く、汝等が問ふ所は、只一言にして決すべし、即ち官兵衛を捨つるのみ、夫れ官兵衛は、主君の命を奉じて、有岡城に赴き、村重不法にも之を幽囚せしものなれば、曲・全く彼にあり、官兵衛若し不幸にして、村重の為めに殺されん乎、是れ君命に殉する武士の本分なり、然れども松寿は、曩に信長公に盟ひ、二心なき證拠として、人質に出したるものなれば、今・官兵衛を助けんが為め、義に背き信を破りて、信長公を欺くこと能はず、然るに今や御着と姫路とは、不幸にして確執となりたれば、従来小寺家の附人として、当城に在住する諸士は、御着に帰りて、政職に忠勤を尽されよ、又我が家臣と雖も、去就は、一に其の選む所に任かす、我は只一死を以て素志を貫徹せんのみ(黒田家譜・喜多村家伝)と、辞色共に壮烈を極めたれば、列座の面々、職隆の義心の堅さに感激し、皆な「誰か此の大事を見捨申べき、仮令御着より攻来るとも、我々かくて候へば、只一番に追散すべし」([喜多村家伝] 本分では、多喜村家伝とある)と、契約したり、夫より喜多村甚左衛門の発議に依り、熊野牛王の誓紙に、二心なき誓文を認め、署名書判して、職隆に上れり



於是(ここにおいて)
以為へらく(おも)へらく
悛め(あらた)め
衆口金を鑠かす(しゅうこきんをとかす)  多くの人の言う言葉,特にそしりや讒言(ざんげん)は正しいことをも滅ぼす。
螻蟻(ろうぎ) 螻(ケラ)
竟に(つい)に
将た(は)た
辞色(じしょく) 言葉つきと顔色



黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916



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2014年6月17日火曜日

黒田如水伝 第三章 官兵衛の幽囚 (1)

第三章 官兵衛の幽囚
政職信長に叛く…官兵衛政職を諌む…官 兵衛義を守り御着に勤仕す…職隆武備を修めず能楽を催す…官兵衛有岡城に赴く…荒木村重官兵衛を幽囚す…官兵衛・松寿死活の問題…職隆官兵衛を捨てて素志 を貫く…家臣誓書を以て二心なきを盟ふ…信長松寿を殺さしむ…竹中半兵衛松寿を美濃に匿まふ…信長有岡城を囲む…母里・栗山・井上の苦忠と加藤の情宜…獄 窓の藤花未来の瑞祥を告ぐ…有岡城の兵燹に栗山官兵衛を救ふ…官兵衛戸板に乗り信長に謁す…信長の慚愧…官兵衛有馬に湯治し姫路に帰る…秀吉官兵衛の手を 取り涕泣す…官兵衛黒田の本姓に復す
是より先き荒木村重は、陰かに款を毛利氏に通ぜしが、天正六年九月に至り、公然叛旗を翻して、信長に叛く、偖村重の謀叛は、独り小寺の宗家に累を及ぼすのみならず、官兵衛が一世一代に於ける断腸の記なれば、今玆に其の顛末を叙述せんとす

抑 も荒木村重が有岡城に籠りて、信長に叛きたるは、全く毛利氏の計略に依るものなり、曩に将軍足利義昭は、信長に迫害せられて京都を去り、漂流して毛利氏に 寄食せしが、信長の中国征伐を企つるや、義昭は毛利氏の内意を受け、窃かに侍臣を遣はし、村重を説きて、毛利氏に応援せんことを勧む、適ま村重・信長の勘 気を蒙り、悒々として楽まざる際なれば、終に意を決して信長に叛く、信長乃ち家臣を有岡城に遣はして、村重を説諭したれども、村重更に承服せざるのみなら ず、却て小寺政職を説きて、毛利氏に加担せんことを勧む、元来政職は、村重の同志なれば、直ちに前約を破りて、信長に叛かんとす、

官 兵衛大に驚き、政職を諌めて曰く、今ま臣が信長に叛くの不利を陳弁するものは、我が児・松寿を人質に出したるが為めにあらず、信長は将来必らず天下を統一 すべき英傑なれば、此の人を推戴すること、小寺家の武運長久を謀る良策なればなり、加之曩に自から進んで信長に属し、今又其の誓約を破りて、毛利氏に従ふ こと、実に背徳不義の極にして、武将の恥づる所なり、希くば此の利害を熟考して、前約を守り給はんことをと、諄々と諌諍したれども、政職少しも顧みるの色 なく、又其の老臣等は、陰かに相謀りて、官兵衛を殺さんと企つ、

於是官兵衛姫路に赴き、職隆に其の由を告げて、善後 の策を謀る、職隆乃ち重臣を集めて、其の所見を問ふ、列座の面々皆な曰く、御着の主従は頑冥にして、官兵衛殿の真意を了解すること能はざれば、如何程小寺 家の為め、懇説せられたりとも、彼等は覚醒すること能はず、却て是れ小寺家を危ふするものと、猜疑するに至らん、縦ひ今・官兵衛殿、再び御着に帰り、信長 公推戴の事を勧めらるゝとも、彼等は反省せざるのみならず、或は官兵衛殿を殺害するやも計り知るべからず、故に先づ病と称して姫路に留まり、「日々御着へ 使者を遣はし、老中近侍に御追従を[遊被候]て、危難を免るゝに如かず、然れども彼等の疑団猶ほ解けず、兵力を以て攻め来ることあらば、直ちに之を撃退 し、進んで御着城を陥れんのみと、

官兵衛之を宥めて曰く、諸子の意見は、一理なきにあらざれども、御着に於て公然敵 意を示さざるに先ち、姫路城に楯籠れば、是れ即ち小寺殿に対し、弓を彎くものなり、又病と称して、御着に帰らざれば、我が怯懦を天下に示すのみならず、却 て彼等に辞柄を与ふるものなり、我再び御着に帰ると雖も、我家の武運尚未だ尽きずんば、我が身に危難の及ぶことなからん、若し又小寺殿の猜疑霽れずして、 我を殺害せらるゝならば、是れ我が武運の尽くる時なり、義を守りて一命を惜まぬは、弓矢取る身の兼ての覚悟なりと、

官 兵衛の言了るや、職隆膝を拍つて曰く、官兵衛の決心最も我意を得たり、一旦信長公を主君と戴き、又小寺殿を旗頭と仰ぎたる上は、信長公に対し二心を懐か ず、又小寺殿に向て忠義を尽すこと、是れ職隆父子が守るべき正道なり、若し正道を守りて、尚ほ殺害を免かるゝこと能はざれば、是れ天の我が家を滅ぼすの時 にして、少しも歎くに足らざるなり、往け官兵衛、汝は速に御着に帰りて、平常の如く勤仕し、力めて自ら危難を招くこと勿れ、若し不幸にして、危難を免るゝ こと能はざる時は、潔く割腹して、武士の本分を守れと、官兵衛毅然として答へて曰く、謹んで教訓を遵奉せん(黒田家譜)と、将さに辞して御着に帰らんとす るや、父子相顧み、是れや今生の別れならんと、互に両眼に涙を泛べて、無言の間に袂を分ちたり、家臣等は、此の悲壮勇烈なる態度に感激し、斯る父子の為め には、身命も惜しからずと、各々期せずして決心したり

御着の老臣等は、曩に官兵衛が、窃かに姫路に赴きたるは、全く 彼等の陰謀を覚り、姫路に赴き職隆を説きて、籠城する為ならんと思ひしに、官兵衛が平常に異ならず、再び還り来りたるを見て、皆な案外の思ひを為したり、 翌日官兵衛は、老臣等を自邸に招きて、饗宴を催せり、故郷物語は其の有様を記して曰く、
姫 路へ参り、珍敷肴・求来り候、御出候へかし、料理仕・心閑に話[申可]など、自筆にて申遣ける、年寄共何とぞ官兵衛たらし度思ふ折柄なれば、急ぎ官兵衛所 へ行ける、態と大勢呼集め、いかにも打解用心もせず、もてなしければ、何れも帰りさまに集り、扨も今日官兵衛亭主振り目を驚せり、何程つくろふ共、心底も 有ものは紛ぬものなるが、能々心を付しが、少も心に掛る事なし、先安堵也
と、何れも感服したれば、曩きに老臣等が、官兵衛を殺さんと企てしも、今は却て官兵衛が術中に翻弄せられて、終に彼を殺害するの機会を逸し去りたり

今 や眼を転じて、姫路に於ける職隆の動静を視るに、官兵衛既に死を決して姫路を去るや、職隆老臣を集めて、御着に対する方針を協議す、老臣皆な曰く、御着と は到底紛争を免るべからざれば、彼より姫路に攻め来るまで、拱手坐視すること、策の得たるものにあらず、故に一方に於ては、先づ御着に偵察を遣はして、政 職の動静を窺ひ、又一方に於ては、姫路城の守備を固めて、緩急に応ずる準備をなすべしと、職隆曰く、今は兵備を厳にせんより、寧ろ娯楽に日を暮して、武備 を怠るの外観を示すに如かず、暫らく我が為す所に任せて、時機を待つべしと、

職隆乃ち当時播州に徘徊せし能役者、金 剛又兵衛を聘し、毎日城内に於て、能楽を催さしむ、是より先き政職は、間諜を姫路に遣はして、職隆主従の動静を偵察せしめしが、職隆の家臣日々城内に集 り、誰は鼓、誰は太鼓と、各々其の役割を定めて、能楽の支度に忙しく、更に戦争の準備を為す形勢見えざれば、間諜乃ち御着に還りて、其の由を政職に復命 す、御着の主従は、此の案外なる報告に驚き、暫し為す所を知らざりきと云ふ



小寺政職(こでらまさもと)
兵燹(へいせん) 戦争による火災。兵火。
曩に(さき)に
適ま(たまたま)
悒々(ゆうゆう) 心がふさいで楽しくないさま。
諄々(じゅんじゅん)
諌諍(かんそう) 争ってまで諌めること。
於是(ここにおいて)
先ち(さきだ)ち
怯懦(きょうだ)
辞柄(じへい) 口実



黒田如水伝
クロダ ジョスイ デン
金子堅太郎 著
博文館 1916



01. 02. 03. 04. 05.

2014年6月13日金曜日

ブログ「説話の力」を開設致しました☆


この度、blog「説話の力」を開設致しました。
このブログは速水敬五が主宰していましたwebサイト「説話の力」を内容を引き継ぐものでもあります。
今回、新たにT&H examination companyが主宰し、説話に関する「なるほど(^^)(^^)」、「へーっ!?」と思えるエピソードを紹介していきたいと思っています。
companyと云っても会社ではなく、同じ目的を持った仲間という意味を込めて名づけました☆

説話と云っても文学知識が必要なわけではなく、普段テレビやネット、本で接する何気ないエピソードが実は有名な説話と関連があったりするんですよ(^^)/
是非是非気軽にアクセスして、日常生活に花を添えてくださいね♪

T&H examination company
水音凛香(みね りんか)